「審判者なる主への訴え」

詩篇 7:1-17

礼拝メッセージ 2022.11.20 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.サウルによって追い詰められていたダビデ

・サウル王からの逃亡

 詩篇7篇の表題「シガヨン」「ベニヤミン人クシュ」について、その意味はいずれも明らかではありません。「シガヨン」とは、「激しい音楽のリズム」「嘆きの歌」等と解釈されることがあります。「ベニヤミン人クシュ」については、サウル王の忠実な部下であったと言われることがありますが、他の歴史書において一致すると思われる人物は見当たりません。不明点が多く、背景の詳細は明らかではありませんが、一般的に、「ダビデによる」という表題とその内容から、この詩篇はダビデがサウル王から逃亡していた時の祈りだと考えられています。
 この時、ダビデは精神的・肉体的に相当追い詰められていたことがうかがえます。獅子が獲物を引き裂く姿を知っていた元羊飼いのダビデは、自分に追い迫る者たちを「獅子」に例えて、その恐怖を語っています。
 「もしも 私の手に不正があるのなら(3節)」とは、自分は何においても罪がないという意味では語られていません。これは、根も葉もない事実によって不正者のように扱われ、批判を受けていたことに対するダビデの嘆きであると考えられます。そのことについて、ダビデは自分に思い当たる不正がいっさいないのです。ダビデは、聖書では語られていないような激しい誹謗中傷も受けていたのではないかと想像します。

・ 忠実な主のしもべとして

 サウル王の妬みを買って、逃亡せざるを得なくなったダビデでしたが、彼のサウルに対する態度は誠実なものでした。逃亡中、ダビデにはサウルの首を取ることのできるチャンスがありました。ところが、サウルは主に立てられた王であるという理由から、サウルを殺そうとはしませんでした。それどころか、サウルと権力争いをしようなど微塵も考えていませんでした。ダビデは主の忠実なしもべとして、主に立てられたイスラエルの王サウルに仕えていました。
 ダビデには、サウル王側の人間に咎められるような不正を行った記憶がありません。それなのに、まるでダビデが不正を犯し、悪い仕打ちをしたかのように扱われていたことがうかがえます。憶測によって、ダビデがサウル王の王位を狙っていると噂されていたことでしょう。このことについて、完全に潔白であるダビデは「私にある誠実にしたがって 主よ 私をさばしてください(8節)」と訴えているのです。
 理不尽な理由によって命を狙われたうえに、誤った憶測による中傷を受けていたと思われるダビデは、心ない言葉によって深く傷ついていたのではないでしょうか。詩人の訴えから、憤りや苦しみ、嘆きが伝わってきます。


2.主だけが、正しい審判者

 ただ、ダビデは怒りによって復讐を企てようとはしませんでした。使徒パウロは、「愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りに委ねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する』(ローマ12:19)」と教えていますが、詩人もそのように、主にお任せしているようです。どれだけ腹を立てようとも、身の潔白を証明できようとも、審判者は自分ではなく主です。 「日々、憤る神(11節)」という表現がありますが、主は詩人以上に、人間の罪や不正について毎日憤り、心を痛めているのではないでしょうか。「剣を研ぎ」「弓を張って(12節)」とあるように、主は必ずさばきを下されるお方です。
 また、ダビデは「宿し」「はらみ」「産んで」という出産に用いられる言葉を用いた比喩によって、悪しき者が悪を生み出す妊婦として描かれています(14節)。そして、悪しき者は、大きな獲物を狙うときに用いる穴に他人を陥れようとして深く掘るが、自分がそこに落ちてしまうのです(15節)。「墓穴を掘る」という日本語の表現と同じです。16節は詩人が実際に主のさばきを見たような描写ですが、これは彼の信仰による確信の表現であると考えられます。
 そして、最後の17節は、「私は主をほめたたえます。その義にふさわしく。いと高き方 主の御名をほめたたえます」と締め括られています。主に苦しみを訴えた後には、主をほめたたえているのです。
 私たちも、憤りや嘆きを主に訴えながらも、最終的には主の審判に信頼し、その都度、主のみもとに帰っていく信仰者でありたいと願います。