「平和の王」

イザヤ書 11:1ー10

礼拝メッセージ 2022.12.25 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,希望無きイザヤの時代

 今年も、コロナの感染、戦争の脅威、物価の向上、自然災害、宗教団体の献金問題など、あまり明るい話題を聞くことはできませんでした。悲観的に言えば、異常で危機的な時代を迎えていると言って良いかもしれません。不安や恐れに縛られて、希望を持てない人々も多くおられるのではないかと思います。しかし、これまで二千年間、聖書が語り、教会が叫び続けている福音のことばは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」(ルカ2:11)という希望のメッセージです。
 今日見るイザヤ書では、その予告が示されるばかりか、さらにこれからの未来への希望を宣言しています。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」、「その日になると、エッサイの根はもろもろの民の旗として立ち、国々は彼を求め、彼のとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ11:1、10)。ここに描かれていることを額面通りに信じられるでしょうか。実は、イザヤがこの預言を人々に語った当時も、希望が見えない暗闇のただ中に民は暮らしていたのです。
 イザヤが神から召命を受けたとき、神はこう仰せになっていました。「町々が荒れ果てて住む者がなく、家々にも人がいなくなり、土地も荒れ果てて荒れ地となる。主が人を遠くに移し、この地に見捨てられた場所が増えるまで。そこには、なお十分の一が残るが、それさえも焼き払われる。しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔。」(6:11〜13)。6章に語られた荒廃のありさまは、国や社会が滅亡した悲惨な光景を示しています。町は焼き払われ、人々が誰もそこにいなくなり、土地が荒れ果てたままになって放置されてしまう絶望的状況です。何もかもが燃え尽きて、荒涼とした大地に、切り倒された樹木の切り株だけが滅びの痕跡を示すように残ります。11章1節にある「エッサイの根株」はそうして切り倒された木の「切り株」を思わせます(10:33〜34)。すべてが失われ、廃墟と化した町、どん底にまで落ちたかに見えた暗闇の中、かすかに見える光、それがイザヤの描く福音です。


2,「切り株」から始まる希望

 個人的なことですが、先週いろいろと考え事をしながら、祈りつつ歩いていたときに、突如、私の心に迫ってきた聖書のことばがありました。それは「サムソンの髪の毛は、…また伸び始めた」(士師記16:22)です。サムソンは、彼の恋人、そして実はペリシテ人のスパイだった女性、デリラに魅惑され、騙されて、彼の怪力の源であった髪の毛をすべて剃られてしまうことで、その巨大な力を失ってしまいます。主が離れてしまい、力の去ってしまった哀れなサムソンは、ペリシテ人に捕まり、両目をえぐられ、青銅の足かせで縛られて、敵の見世物になってしまいます。サムソンにとって、そしてイスラエルにとっても、これは絶望的な状況でした。しかし、鎖で繋がれている彼の頭には、髪の毛がまた伸び始めていたのです。やがて、サムソンは回復した怪力をもって、自分のいのちをかけて、最後の働きを成し遂げるのです。
 不思議なことですが、聖書が語る希望とは、「切り株」から始まるのです。髪の毛を剃られて、力を失った坊主頭から始まっていくのです。イザヤは語ります。「闇の中に歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝く」のです(9:2)。それは「夕暮れ時に光がある」(ゼカリヤ14:7)というような希望です。「望みは失せ、詮方尽きて、心弱り、思い萎れ、再び立ち上がる力無き時に」人が、神を信じて与えられる希望なのです(「新聖歌 441番」)。では、そのような希望はいかなるものであり、どんなかたちのものでしょうか。それがこのイザヤ書11章1節から10節が描いている世界の姿です。


3,イザヤが語る希望−正義が行われる世界(3〜5節)

 3と4節を見ると、「さばく」とか、「判決を下す」ということばが出て来ます。裁判とか、さばくということには重く厳しいイメージがあり、私たちの喜びに直接結びつかないように見えるかもしれません。しかし、多くの人はこの世界で、善なることが実行され、正しい判断がなされ、裁きが行われることに対する強い欲求を持っています。特に、自分や自分の身近にいる人が、不当な苦しみや不正な評価がされることに対しては、強い怒りを抱きます。
 人間の幸せの基盤には、生きている世界において、正しさや義が守られていることが絶対条件です。3節の「その目の見えるところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず」というのは、見かけ上の正しさによってではなく、真の正義が実行されることを意味しています。4節の「正義」、「公正」、5節の「真実」も、人間であれば不正や間違いもあり得ますが、そうではなく、裏も表もすべてを見通している神が絶対的な正しさをもってさばきをなさることを示しています。


4,イザヤが語る希望−ともに生きる世界(6〜9節)

 6〜9節を見ると、不思議な情景が語られています。狼と子羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子、雌牛と熊、乳飲み子とコブラ、乳離れした子どもとまむし、これらが互いに食うか食われるかの関係ではなく、ともに安心して生きていける世界が描かれています。ここに示される世界の姿は、王であるメシアが支配するとき、地上に実現していく平和のかたちを明らかにしているのです。狼と子羊、豹と子やぎ、子牛と若獅子などを考えると、当然、狼は肉食ですから子羊などを襲ってもそれは仕方のないことです。しかし、そのやむを得ないように思えることが、人間社会の中でも常に問題となっています。社会の不正を正すとしても、それぞれに絡み合った利害や、「仕方のなさ」というようなところが多くの場合存在したり、構造的に簡単には解決できないこともあるでしょう。しかし、その中で、やはり弱者は苦しまなくてはならないし、安心して生きていくことができない問題を抱えています。「獅子が牛のように藁を食べ」るようにすることは、人間にはできないことです。しかし、ここに示されているメシアである王は、殺したり殺されてしまう関係から、「ともに生きる」という共生共存の関係に、世界をその根本から造り直してくださるというメッセージです。


5,イザヤが語る希望−エッサイの根株から出る王(9〜10節)

 では、その希望を実現する、偉大な力を持った方とはどなたであるのか、ということを明らかにすることばが、サンドイッチ的な文章構造で、1〜2節、そして9節後半〜10節に示されています。それが「エッサイの根(株)」です。イザヤを通して神が示したメシアのイメージは、過去の素晴らしい伝説的で偉大なダビデ王の再来ということではなく、力強くこの世界の変革を必ず成し遂げられることを約束する完全に新しいものだったのです。この真に偉大な希望を成就するために来られた、平和の王であるキリストを、どうか今、心にお迎えください。