ヨシュア記 1:1ー9
礼拝メッセージ 2023.1.1 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,立ち上がれ!(1〜4節)
新しき地に踏み出す私たちへのメッセージ
教会暦を使用している教会が、年始にこの箇所を礼拝で取り上げて読んできたことを思うと、未知の世界に飛び込もうとしているヨシュアやイスラエルの民の状況と、何が待っているのか予測のできない、この年の初めに立つ自分たちとが重なりを持っていることを感じるからでしょう。これからのことをすべて予測できる人は誰もいないと思いますが、それでも、想定できるいくつかのことがあると思います。この一年、多くの神からの恵みがきっと準備されていることは間違いないことでしょう。しかし、他方、いろいろな意味で、私たちの誰もが、そして教会が、さまざまな戦いを経験することになるであろうということです。新聖歌398番にあるように「新しき地に踏み出だす、心に備えありや」と私たちが心から確信して進み行くために、ここにヨシュアに告げられたことばを個人個人に語られたメッセージとして、またこの教会全体に対する神からのことばとして、今日受け取りたいと思います。
「モーセは死んだ」
1節に「モーセの死後」とあり、2節で「わたしのしもべモーセは死んだ」と主は言われました。さらに3節と5節にも「モーセ」の名前が出て来ます。これはヨシュアへの召命のことばであるのに、1節以外に「ヨシュア」の名前は出てきません。こうしたことからも、モーセという人の大きさがイメージできます。この書の前に置かれている「申命記」を見ると、その終わり34章10節に「モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。」とあります。そして彼の死を悼んだ民は、30日間にわたって喪に服したことが同章の8節に書いています。
モーセからヨシュアにバトンタッチされることは以前から決まっていましたが、現実にモーセを失った、ヨシュアと民の悲しみと落胆は非常に大きなものがあったと想像できます。これからいよいよ約束の地へと入って行くというこの大事なときに、モアブの地でモーセは神に召されたのでした。しかし、そこで神は新しい指導者ヨシュアに、そして民に、はっきりと言われたのです。「ヨシュアよ、座り込んで泣いている場合ではない。民たちよ、嘆き落ち込んで良い時間はもう終わったのだ。さあ、立ち上がれ。ヨルダン川を渡れ。」と。この2節の「立って…」ということばは命令形です。ヘブライ語では「クーム」で、「起き上がれ」、「立ち上がれ」という表現です。「タリタ、クム」(マルコ5:41)のあの「クム」(起きなさい)と同じです。
「足の裏で踏む場所はことごとく」
「立ち上がれ」、「ヨルダン川を渡れ」と命じられても、それだけでは立ち上がるための力が湧き上がってきません。主はそのことをよく知っておられ、しっかりと約束のことばをもってヨシュアを励まします。これから彼らが入って行く土地は、神が与えると約束をされた土地であることを、彼の心に刻みつけるように、「わたしは与えている」(2、3、6節)と繰り返し言われています。
ここに「足の裏で踏む場所はことごとく」という表現がされています。「戦って、勝ち取れ」とは言われていません。あなたがたの足の裏が歩いて踏む場所のすべてが与えられていると言われました。もちろん、実際には、戦って征服し、占領しなければ、その土地の中に入って踏んで歩いて行くことはできないのですが、この神の民が行進していくことによる勝利というイメージは、ヨシュア記が語る興味深い戦い方です。彼らがこれから、ヨルダン川を渡るときも、「主の箱を担ぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまるとき」(3:13)、ヨルダン川の流れがせき止められる奇跡が起こりました。堅固な町エリコに入るときも、彼らは町の周りを行進することで、城壁が崩れ落ちるという奇跡がありました(6章)。まず足を一歩ずつ踏み出すこと、そのことから「神が与えている」と言われた約束が動き出し、目に見える現実となるのです。私たちもその一歩を踏み出しましょう。
2,強くあれ!(5〜6、9節)
神は「わたしはあなたとともにいる」と約束され、そして「強くあれ」と励まし、命じられます。しかし、「強くあれ」とはもちろん、体を強くせよとか、強い精神力を持てとか、そういうことではありません。新約聖書で、パウロは自分自身のことを「強い」とは言わず、むしろ「弱い」と告白しています。けれども、キリストの力がこの自分を覆うためにむしろその「弱さ」を誇ると言います(Ⅱコリント11:30)。さらに、「主にあって、その大能の力によって強められなさい。」(エペソ6:10)とも言っています。そこからわかることは、ここの「強くあれ、雄々しくあれ」というのも、神の御力によって「強くされる」ということであり、人間的な強さのことではなく、神によって力づけられることを言っているのです。
この強さがどこから来るのか、私たちは知っています。ヨシュアも私たちも、たったひとりで戦う必要はないということです。神が自分の側におられ、このお方がともに戦ってくださるのです。マタイの福音書1章の「インマヌエル」(神は私たちとともにいる)と同様な表現がヨシュア記1章9節にあります。それは「インメハ・アドナイ」(主はあなたとともにいる)です。
3,みことばから離れるな!(7〜8節)
最後に、ヨシュアに命じられた大事な命令は、「みことばから離れるな」です。「これを離れて、右にも左にもそれてはならない。」(7節)とあり、さらに「このみおしえの書をあなたの口から離さず、昼も夜もそれを口ずさめ。」(8節)と、みことばから決して「離れてはならない」と言われています。8節のヘブライ語文章を直訳すると、「あなたの口から律法の書は離れないであろう」となります。その表現からすると、律法である神のことばのほうが、私たちのところから離れることをせず、しっかりと留まり続けてくれるかのように読み取れます。
これを聞いてヨシュアは、「まことに、みことばは、あなたのすぐ近くにあり、あなたの口にあり、あなたの心にあって、あなたはこれを行うことができる」(申命記30:14、ローマ10:8)とモーセを通して語られたことを思ったことでしょう。みことばはすでに私たちのそばにあり、口にあり、心にあるのです。それから離れようとせず、それを拒否せず、むしろ積極的にこのみことばに向かっていき、それを愛し、日々親しみ、これを行うように努めること、そう神は願っておられ、命じておられるのです。それだけが、これからの戦いにおいて勝利をしていく道です。私たちが栄えていくための唯一の方法です。「いのちのことばをしっかりと握り、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は自分の努力したことが無駄ではなく、労苦したことも無駄でなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」(ピリピ2:16)とパウロが語ったとおりです。