「義人の主に対する不動の信頼」

詩篇 11:1-7

礼拝メッセージ 2023.1.29 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


暴力と神の正義

 詩篇作者は,ヤハウェ(主)に逃れると言います。敵方が弓矢を用いて追いかけてきます。彼らは不法を行う者であり,ヤハウェとは対立する人々です。心がまっすぐな者を滅ぼすために追いかけてきます。礎が崩されます。ヤハウェの建てた社会的価値観(正義/苦しめられている者が,その苦しみから解放されえること。生活の術が与えられていること)はすでに破壊されています。正しい者が行ったことは何か? あるいは正しいものは何を行うことが出来るのか? いずれにせよ,正しい者の力は失せています。ヤハウェに従って正義を行うことは現実的には見えません。しかし、詩篇作者はこのような周りの人々の声に反論していきます。
 ヤハウェは何者であり,何をするのでしょうか。まずヤハウェは聖なる神殿にいます。また天の座にいます。ヤハウェの示した正義の礎は破壊されたとしても,ヤハウェは存在します。人々はヤハウェを拝みはしますが,その示す考えを軽視することで実質的にヤハウェを追い出してしまいます。しかし,神殿に存在し天に住まうヤハウェは,人間を見続けています。そして,正義である者を試みます。ヤハウェを信じ,その考えを実現しようとする者も多くの災いを経験します。悪を行う者をも試みます。そして,暴力を愛する者をヤハウェ自身は憎むのです。人を苦しめる暴力は,ヤハウェの考えとは絶対的に相容れないものです。それは,奴隷とされたイスラエル人がエジプトから解放される物語に描かれていることです。暴力を愛し,悪を行う者へのヤハウェの厳しい態度が述べられます。燃える炭を降らせ,硫黄を降らせるとあります。燃える風は彼らへの杯とされます。暴力を行う者への責任が追及されます。
 それとは対照的に,ヤハウェは正義を愛します。正義は,被害者が加害者に復讐する事ではありません。被害を受け,苦しまされた者が,その苦しみから癒されていくことであり,加害者への憎しみから解放されて,和解の道を模索していくことです。そして,人が生きていくことを選ぶことです。ヤハウェを信頼してその正義に生きようとする者は,ヤハウェの顔を見るとあります。神の顔を見るものは死ぬと旧約では信じられていました。しかし,ヤハウェの正義を行う者は,ヤハウェとの関係を正しく持っている者であり,その関係を「顔を見る」という表現で意味しています。


神の顔を見る

 神を信じて生きていこうとする時に,私たちが信じている神を理解してもらうことは非常に難しいものです。あるいは,聖書が教える様々な事柄が理解されたとしても,それは世間では通用しない考え方であるとか,神の示す生き方を貫き通すことは不可能であるとか,神の生き方を生きたとしても馬鹿を見るだけであるとか,人々はそのように考えるでしょう。聖書の語る事柄にはそれなりに意味はあるかもしれないが,私や私の生活には関係ない。1節から3節にある詩篇著者の友人たち(?)が浴びせかける言葉は,このようなことを意味しています。ただ、これは私たちを理解してくれない人々だけのことばではありません。私たち自身もそのように考えることがあります。聖書の言葉を読み,説教を聞いていても,私たち自身の生活とは切り離して考えます。あるいは,聖書が勧めている神への信頼を追及するよりも,神の名を使って自分にとっての利益・幸せを「どのように」獲得できるのかに目を向けます。「どのように」が問題となり,「何に」心や生き方の土台にするのかは二の次になります。
 社会の基が崩れて,キリスト者が真面目に生きようとしても意味がないと思うかもしれません。そのような中で,神自身は生きて働き,人を見ていると本日の聖書は語ります。神は見ることで人間の生き方をうかがい知り,そして評価を加えている。誰でも試みられて,評価を受けることは恐いことです。この評価は私たちを罰するためではなく,私たちが本当はどのような者なのかを見せつめて,私たちに分からせるためです。神は人を用いて業を成すがゆえに,人間は自らの在り方を知る必要です。悪を行う者であれば,それを止めて神の示す正義を行う者へと変えられることが必要です。悪を行っている者がそれに無自覚であれば,神はその人を通して正義を行うことは出来ません。あるいは,正義をしても仕方ないと考えて,あるいは悪の大きさの前に神の意思を行うことを諦めることは悪に手を貸すことになります。私たちには力がないことなど神は知っています。そんな無力な人間を神は用いようとします。私たちが悪や罪を経験し見たりするときに,少なくとも正義を求めるための祈りや支援を心に留める必要でしょう。
 神は自らの示す正義(苦しむ人の解放・自立・相互扶助)を人間に委ねます。だからこそ,神は人に厳しい言葉をかけます。そして人を愛して励まします。私たちも神の顔を見る者でありたいものです。様々な問題は山積みかもしれませんが,そのような中で(結果はどうであれ)神の意思を探り求めてそれを行いたいのです。どのような助けか分からなくとも,神は必ず助けると約束します。