「人のことばと神のことば」

詩篇 12:1-8

礼拝メッセージ 2023.2.5 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


人の嘘と神の真実

 敬虔な者たち、誠実な者たちがいなくなってしまいました。人々はむなしいことを語り、へつらいと二心で話します。また、「舌で勝つことができる」と豪語します。これは論戦で相手を負かすというよりも、真実を語らず、相手を言葉で騙すことを言っているようです。そこには誠実も忠実さもありません。言葉の嘘によって苦しみ、他者に対する信頼を失ってしまっています。もちろん、これは詩篇が書かれた古代イスラエルだけの問題ではありません。むしろ、現代的な課題です。個人レベルの交流や対話の中で、嘘が混じってしまいます。また、メディアが発達し、個人が社会や世界に対して言葉を発することが可能になりました。そこには真実な言葉も含まれてはいますが、多くの嘘や人々を傷つける言葉に満ち溢れています。誠実さが欠けた言葉によって、人々は互いに不信感を持ち、分断されてしまいます
 そのような人間の言葉に対して、詩篇の後半では神ヤハウェの真実性が強調されていきます。神ヤハウェの具体的な言葉が記されています。それは、抑圧されている人々、貧困に放置されている人々を神ヤハウェ自身が救うという決意を示す内容です。これは旧約聖書に見られる神ヤハウェによる救済の業の中核的な内容であり、新約聖書にも継承されています。そのような神ヤハウェの約束に対して詩篇著者は非常に高い信頼を置いています。なぜならば、神ヤハウェは自身の約束の言葉に基づいて、その救い業を実行するからです。被抑圧者、貧困者は守られると告白されています。


言葉による啓示

 神の真実が言葉を通じて告白されています。聖書の神は言葉を用いてご自身を啓示されています。一般的には、いろいろな彫像や偶像がこの世界に存在しています。多くの神々(宗教)は見せることで自らを現わしています。しかし、聖書の神は自らが像に刻まれることを拒絶しました。神は、言葉によって自らの存在や価値観を人々に伝えることを選んだのです。言葉を通じて個々人、社会、世界を救おうと試みます。例えば、創世記冒頭の創造物語では、神は言葉によって天地を造ったと述べられています。イエスは言葉によって福音(良い知らせ)を伝えました。私たちには聖書が与えられ、神の言葉として告白されてきました。神は言葉を選んだのです。しかし、この言葉が真実なものであるためには、語られたことに対して責任を負い、その内容に応じた生き方が求められます。神は言葉によって救済を約束しましたが、それは神がその実現に対して責任を負ったことを意味しています。そのことによって言葉は力を持ち、その信頼性が与えられます。自らの言葉に対して責任を負わないことが嘘であり、そのような嘘が蔓延していることを詩篇著者は嘆いています。しかし、神は苦しんでいる者に共感し、そのような人々の救いを約束します。それは信頼のある言葉です。そのような正義と救いが神によって実現するという確信があるからです。


私たちに委ねられた言葉

 同時に、この言葉の信頼性は神ご自身に留まるのではないことを知らなければなりません。つまり、言葉の信頼性は私たちにも委ねられていることを理解する必要があるのです。私たちも言葉によってコミュニケーションを図ります。その言葉が信頼あるものであるために、またコミュニケーションの相手と信頼性を維持するためには、交わされる言葉に対して私たちも責任を負わねばなりません。非常に難しいことですが、必要なことです。嘘の言葉で成り立つ関係性には、信頼が欠けてしまうことになります。加えて、教会とキリスト者には神の言葉が委ねられています。神は言葉によって救いを約束しましたたが、同時にご自身の民に対してその言葉を預けて、人間には神の言葉の信頼性を高めるように行動するように求められます。神が直接に語ってくれれば最善だろうと私たちは考えがちですが、それは神の方策ではありません。私たちには伝えるべき神の言葉が与えられているのです。人の言葉には嘘が混じります。それは詩篇著者の指摘であり、私たちの経験です。そのような意味で、言葉の信頼性に自信を持てる人は誰もいません。しかし、私たちはそのような神のからの期待に応えたいと思うのです。私たちが神の価値観に生きること、それが神の言葉に信頼性を高めることです。