「主よ、いつまでですか」

詩篇 13:1ー6

礼拝メッセージ 2023.2.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,詩人は絶望している

絶望する理由①;苦難の終わりが見えない

 この詩篇は冒頭に「主よ、いつまでですか」と語り、祈っています。もちろん、それは「主よ、いつまでこのような苦しみが続くのですか」ということです。詩人は、長引く苦境から、絶望の淵に立っているように見えます。この詩篇で繰り返されていることばは、「いつまでですか」です。1節と2節に二回ずつ、計四回出て来ます。他の詩篇にも同様な表現が記されています。詩篇6篇3節「私のたましいは、ひどく恐れおののいています。主よ、あなたはいつまで−。」とありますし、詩篇80篇4節「万軍の神、主よ、いつまで、あなたの民の祈りに怒りを燃やされるのですか。」と記されています。
 苦しみに遭って、私たちが切に願うことは、それが早く終わり、そこからすぐに解放されること、完全に回復することを望むのです。ところが、多くの場合、その苦難がいつ終わるのか、いつまで続くことなのか、わからないのです。苦痛が大きいものであっても、その期間が分かれば、あともう少し忍耐して待とうと、自分に言い聞かせることもできるのですが、それがわからないし、この詩人が言うように、あたかも「永久に」(1節)その状態が続くかのように感じられるのです。こうして長引く苦しみによって、人は絶望してしまいます。

絶望する理由②;神に見捨てられたと感じる

 第二に、詩人は絶望している自分の心の状態を、神との関係で語っていることがわかります。彼は言います。「あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで、御顔を私からお隠しになるのですか。」(1節)と言っています。神が自分という存在を忘れ、見捨てられているという思いに詩人がなっていることがわかります。このように神の不在を感じたり、自分が捨てられているという感覚は、いつの時代にも、人が経験してきたことでした。
 モーセは次のように落胆して語りました。「私をこのように扱われるのなら、お願いです。どうか私を殺してください。これ以上、私を悲惨な目にあわせないでください。」(民数記11:15)。エリヤはエニシダの木の下でこう祈りました。「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください。私は父祖たちにまさっていませんから。」(Ⅰ列王19:4)。ヨナも自分の死を願って言いました。「私は生きているより死んだほうがましだ。」(ヨナ4:8)。偉大な説教家C.H.スポルジョンは、持病のゆえに重度のうつ病を患っていました。有名な聖書翻訳者J.B.フィリップス、神学者の高倉徳太郎など、実はさまざまな霊的指導者たちが心に苦しみを抱えて、主に奉仕していました。マザー・テレサの私的書簡に記された司祭とのやり取りにも、彼女がいかに霊的暗黒の道を歩んだ人であったのかを示しています。「わたくしはたった一人です。闇はそれほど暗く、わたくしは孤独です。望まれず、放棄された者。…わたくしの信仰はどこへいったのか。心の奥底にも、空虚と暗闇以外には何もありません。…わたくしの信仰は無くなりました。」(『来て、わたしの光になりなさい』女子パウロ会p.305)。詩人同様、長い苦しみは、誰であれ心を疲れさせ、神に見捨てられたとの思いに至らせます。


2,しかし、詩人は祈る

目を注いでください

 このように絶望の中にある詩人ですが、それでも祈るのです。彼の必死の思いが3節に三つの懇願となって記されています。「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を明るくしてください。私が死の眠りにつかないように」。一つ目は、「私に目を注いでください」です。この「目を注ぐ」というのは文字通り、「注視してください」ということです。「神様の御顔をこの私に向けて、私のことをよく見ていてください」という意味です。苦しみが続き、暗闇のトンネルの中にあるような中で、誰もが感じる思いは、「孤独」ということだと思います。誰も自分のことを心配してくれない。目を留めてくれない。そういった感覚でしょう。特に、神が自分を見ていてくださり、いつも心配し、見守ってくださるという安心感を得たいのです。親が幼い子どもの一つ一つの行動に目を注ぎ、心を配るように、詩人は、「私を見つめていてください」と願うのです。

答えてください

 次に、詩人が祈る願いのことばは、「主よ、答えてください」ということです。自分の祈っていること、願っていることに耳を傾けてくださいという祈りです。先の「目を注いでください」というのが、神の「目」や「眼差し」という視覚に関することでしたが、この「答えてください」は、神の「耳」あるいは神の「口」という聴覚や音声に関わっています。聖書にしばしば描かれているように、神は民のうめきや叫びの声を聞いて、確かに答えてくださいました。しかし、よく読むと、ここには神からの答えのことばは記されていません。神は語るどころか、ここでは沈黙しているかのように見えます。苦難の中の叫びということでは、詩篇22篇の最初のことばを思い起こします。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。私を救わず、遠く離れておられるのですか。私のうめきのことばにもかかわらず。」(詩篇22:1)。これはイエスが十字架の上で叫ばれたことばでもあります。「主よ、私に答えてください」と祈る中で、彼は「神の沈黙」を感じたのかもしれませんが、新約時代に生きる私たちは知っています。その「神の沈黙」の中で、極限まで苦しみ耐え抜いた方は、私たちの主ご自身であることを。神は確かに沈黙する神のようですが、同時に苦しむ神でもあられるのです。ですから、「答えてください」ともがき祈るのは、この詩人だけでも私たちだけでもなく、私たちの主であるイエスなのです。

私の目を明るくしてください

 三つ目に、詩人は「私の目を明るくしてください」と懇願しています。「目を明るくする」というのは、「生き返らせてください」という意味だと言われています。聖書によると、「目」は、からだ全体の生きていく力を表し、生命のバロメーター的なものと考えられていました(参照;マタイ6:22〜23)。また、このことばの続きにも、「私が死の眠りにつかないように」と書いています。詩人は、苦しんで絶望し、死を願うほどに落胆していましたが、心の奥底では、「死んで終わってしまいたくない、敵に負けたくない」という強い思いを持っていました。4節にあるように、敵の喜ぶ姿を見たくないのです。この「喜ばないように」の「喜ぶ」と、5節の「あなたの救いを喜びます」の「喜ぶ」は、同じ語が使われています。厳密に言うと単に「喜ぶ」ではなく、「喜び踊る」という意味です。「敵が喜び踊るような結果にしないでください。むしろ私が死の眠りにつくのではなく、目を輝かせて生かし、あなたの救いを喜び踊るようにしてください」と詩人は願って、勝利と復活を歌うのです。この詩篇が示す、「苦難を通って、復活する」という道筋は、信仰者である私たちすべてに共通するものです。受難そして復活、それが聖書が語る「福音」です。この信仰で、私たちも神に祈り続け、歌い続けるのです。