「私の幸い」

詩篇 16:1-11

礼拝メッセージ 2023.3.5 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.あなたこそ 私の主(1-5節)

 表題の「ミクタム」の意味は、「贖罪」「石板に刻まれた文章」「苦しめられている」「黄金の」「隠されている」など、様々な推測がなされていますが、断定しかねるため、原音のまま載せられています。ミクタム詩篇は他にも5篇あり(56-60篇)、内容としては、「信頼の歌」「賛美の歌」の要素があります。この詩の背景についても、諸説ありますが、いずれも決定的ではありません。捕囚期後に作られたと見る立場もあれば、捕囚期中や、捕囚期前とも推測されています。「ダビデのミクタム」とあるように、ダビデの生涯における出来事との関係を見て、彼の作と考えられることも多くあります。
 この詩篇の内容からは、詩人が主を慕い求める信仰者であったことが分かります。主がともにおられるからこそ溢れ出る喜びや心の豊かさが伝わってくる祈りで、注解書では「抜きん出た信仰者」として評価されているものもあります。

 16篇は、「神よ 私をお守りください(1節)」という祈りから始まります。詩人が具体的な問題を抱えていたのか、主に信頼する一般的な祈りの歌であるのかについても、定かではありません。「主に身を避ける」という表現は、“殺意や策略がなく人を殺してしまった場合には、逃れの場が与えられる”という律法に由来すると考えられます(出21:13-14)。主が身を避ける場を与えてくださることから、かなり一般的に用いられたようです。

 そして、詩人は、「お守りください」と祈りながら、「あなたこそ 私の主。私の幸いは あなたのほかにはありません(2節)」と、主に一切をゆだねきっているように、主への信頼を告白しています。
 この詩篇の背景には苦難があったかもしれませんが、3節を見ると、詩人は完全な孤独の中で主に幸せを見出したわけではないようです。神との交わりだけにとどまらず、このお方を神とする者同士の交わりの中に、喜びを見出しています。主にあるすばらしい兄弟たちを知っている詩人は、喜びに満たされて、「地にある聖徒」の1人として主を賛美しています。
 「ほかの神に走る(4節)」とは、「取り替える」「交換する」ということです。主の教えから離れるということは、悲しみや苦しみを経験することにつながります。「血の酒(4節)」とは、ささげものとして血を注ぐことでしょう。バアル、モレクなどの異教では、実際に人身がいけにえとしてささげられることがありました。詩人は、主が禁止しておられる神々の風習には則らないばかりか、そのような神の名も口にしないと宣言しています。
 そして、比喩的表現によって、主は詩人の「割り当て分」であり「杯」であると言います(5節)。イスラエルの部族それぞれに相続地があるのに対し、レビ族は祭司職を担う相続地が与えられませんでしたが、主ご自身がレビ族への割り当て分でした(民18:20)。また、「杯」は飲み物の分配の概念を暗示しています。主に信頼する者にとって、主ご自身が割り当て分・分配であり、主はその受ける分を堅く保ってくださるという詩人の信仰が表れています(5節)。


2.主がともにおられる喜び(6-11節)

 詩人は、主への信頼と感謝のゆえに、主ご自身を割り当ての地、ゆずりの地として持っています(6節)。そして、助言を下さる主をほめたたえています(7節)。夜を迎えるたびに、主との交わりの時を持ち、与えられた助言にあらためて感謝し、主への思いを新たにする、詩人の日常がうかがえます。詩人は、身も心も、主が完全に守ってくださることに信頼し、主がともにおられることに喜びを見出しているのです。それで、「私の胸は喜びにあふれています(9節)」と、その喜びをこのうえなく表現しています。「よみ(10節)」とは死者の世界・状態を表しています。
 主が自分のたましいを滅ぼされることがないと確信しています(10節)。パウロは、この箇所を使徒の働き13章35節で「ですから、ほかの箇所でもこう言っておられます。『あなたは、あなたにある敬虔な者に滅びをお見せになりません』」と引用して、神がよみがえらせたキリストについて語っています。また、ペテロもキリストの復活についてダビデがこのように予見したのだと解釈しています(使徒2:25-31)。実際ここではキリストの復活のことが直接扱われているわけではありませんが、神とともに歩む生活が死や滅びという恐れを取り除き、この世の何にも勝る希望を神が与えてくださるという詩人の信仰による確信が述べられています。

 主が知らせてくださるという「いのちの道(11節)」とは、死後のことを言っているというよりは、現在の満ち足りた信仰生活のことを語っていると言えます。主にある信仰生活のあり方について、主が知らせてくださり、詩人は主を礼拝する者の楽しみを経験しているのでしょう。
 主が私たちに与えてくださる喜びや楽しみは、死後のことだけではありません。信仰者は苦難においても、主が与えてくださる心の満たしを経験することができます。それは、異教の神々や、この世のものが与える安心とは違います。痛みや苦しみを主以外のものでごまかし続けるならば、その痛みは増し加わることになるかもしれません。私たちも、この詩篇の詩人が経験した胸にあふれる喜びを、主に追い求めてまいりましょう。そして、「私の幸いは あなたのほかにはありません」と告白する信仰者とならせていただきましょう。