詩篇 17:1ー15
礼拝メッセージ 2023.3.12 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,いつでも祈るべきで、失望してはいけない
無実の罪で訴えられた詩人
この詩篇は、無実の罪で訴えられている詩人の祈りであると考えられています。今回私はこの詩篇に向き合っている中で、何とも言えないような息苦しさを感じました。作者が抱えていた苦しみの大きさが、ひしひしと伝わってくる詩篇だからでしょうか。この詩篇では何度も「〜してください」と神に向かって短いフレーズで執拗に訴えがされ、そこに崖っぷちに立たされた人のもがき苦しむ姿が見えるような気がします。17篇には、夜から朝へという時間的流れが見られます。3節で「夜」に問いただされたということばがあり、最後の15節で「目覚めるとき」とあるので、夜のうちに裁判が始まって、明け方に判決が出るという情景が描かれているようです。ちょうど、イエスが逮捕され、その夜に不当な裁判がなされ、翌朝には死刑判決を言い渡されたように、詩篇記者もそのようないのちの危機に直面していたのかもしれません。
御翼の陰に
6節以降を読むと、詩人の叫びは大きくなり、激しさを増していきます。6〜8節では、神が自分の切なる祈りを聞き守ってくださるように、ことばを重ねて嘆願しています。この詩篇の中で最も美しい表現と評されているのがこの8節です。「瞳のように私を守り、御翼の陰にかくまってください」。「御翼の陰」という表現は、他の詩篇にもいくつか見られることばです(36:7、57:1など)。ある人たちは、これが契約の箱の上にあるケルビムの翼のことを示していると説明しています。そうかもしれないのですが、私の理解ではこの8節で詩人がイメージしたことは申命記32章のことばではないかと思っています。「主は荒野の地で、荒涼とした荒れ地で彼を見つけ、これを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守られた。鷲が巣のひなを呼び覚まし、そのひなの上を舞い、翼を広げてこれを取り、羽に乗せて行くように。」(申命記32:10〜11)。この聖書箇所には、「翼」だけでなく、「瞳」ということばも出てきています。
もしそうであるなら、詩人は、かつて出エジプトをした民が荒野を放浪した四十年間の旅路のことを思っていることになります。現代であれば、人間の一生の半分近くにあたる四十年間という長い期間、何十万人もの人々が荒涼とした土地を歩き回り、テント生活を送り続けました。民数記などに記されているように、その歩みにおいて、不平不満の叫びが神に対して向けられ、モーセなどの指導者を苦しめました。ある人々にとっては、怒りと苦しみのつぶやきしか出てこない悲惨な四十年でした。しかし、主は「あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来た」(出エジプト19:4)と言われたように、この申命記32章でモーセは歌うのです。主は「この四十年、私たちを抱き、世話をし、ご自分の瞳のように守ってくださった。そして鷲がひなを翼を広げて守り、それに乗せて運んでくれた」と。詩人は主なる神がこの危機一髪の状況にいる自分を神の民として御翼の陰で守って欲しいと祈っています。
苦難の現実の中で
9節から14節は、彼を訴えている「向かい立つ者」(7節)、「悪しき者」(9、13節)、「貪欲な敵」(9節)から自分を守り、彼らを正しく懲らしめ、さばいてくださるようにという、呪いに近い、かなり激しいことばが綴られています。このように強い表現で訴えているのは、それほど詩人が追い詰められた状態であったからでしょう。
しかし、それでもそのたいへんな苦難の現実の中で、荒野で不満をぼやき続けた民のように彼は文句を言わず、もうダメだと言ってあきらめて投げ出すこともありませんでした。詩人は敵と対峙し、現実に向き合い、神を仰いで戦い抜いたのです。彼が、このように熱心に祈り続けた、という点がやはり大切なのです。「いつでも祈るべきで、失望してはいけない」のです(ルカ18:1)。この彼の祈りの姿勢を私たちも心に留めなくてはなりません。
2,「私の義」から「神の義」へ
正しく生きている私がなぜこんな目に
そしてこうした必死の継続した祈りが、詩人の心を変えたこともこの詩篇は明らかにしています。詩人は最初、自分の正しさを弁明し、自分の義を立てることによって、神が弁護者となってくださることを切に求めたのです。ところが、最後の部分、15節ではこう祈っています。「しかし私は、義のうちに御顔を仰ぎ見、目覚めるとき、御姿に満ち足りるでしょう。」と。
ここに「義」(ヘブライ語でツェデク)ということばが出て来ます。実は、この「ツェデク」(義)は、1節にも使われています。「主よ、聞いてください、正しい訴えを」というところの「正しい訴え」と訳されたことばは、「ツェデク」(義)です。七十人訳聖書ではこの1節の「義」は、「私の義」と訳されていますが、このあとの内容からもわかるように、確かにこの1節で表現されているのは、作者自身の「私の義」、自分の義であったのです。人はたいへんな苦しみや困難を抱えると、どうして私がこんな目に…、と考えがちです。私が一体どんな悪いことをしたというのか、正しく生きている私がなぜこんな理不尽な目に遭わなくてはならないのか、と神に訴えたくなると思います。
求めるべきは「神の義」
今の今まで正しく生きてきた私がなぜこんな苦しみに出会わなくてはならないのかという思いが17篇の詩人にはあったことでしょう。それで必死に神に求めているのです。「私の義を守ってください。義である私を弁護してください」と強く願っています。しかし、この詩人は祈りの最後において、「私自身の義」ではなく、「神の義」こそ必要であり、そこにしか希望がないということを理解することができました。
『新聖歌』230番「十字架のもとぞ」に、「十字架のもとぞ、いと安けき。神の義と愛の会えるところ」とありました。この歌は、エリザベス・C・クレーフェンというスコットランドの女性詩人が作った賛美歌です。元々体が弱く38歳の若さで天に召されたクレーフェンでしたが、彼女の原歌詞では、イエスの十字架について、こう歌われています。「ああ、天の愛と天の義が出会う約束の場所!」と。「約束の場所」というのは原歌詞(英語)でトリスティング・プレース(trysting place)で、恋人がデートで待ち合わせをする場所のことです。
訴えられ苦しむ詩人にとっては、正しいさばき、義が必要でした。しかし、神の御前に生きている信仰者として、不完全な自分の義で生きていくことはできません。神の義が必要であり、同時に神の恵みと愛が必要でした。詩人が祈りの中に見て憧憬した「神の義のうちに仰ぎ見る御顔と御姿」とは、まさにイエスのうちに見られるものであり、主の十字架のもとにしかないものでした。神の義と愛の会えるところ、十字架を仰ぎ、私たちも主に祈り続けましょう。