詩篇 18:1-24
礼拝メッセージ 2023.3.19 日曜礼拝 牧師:南野 浩則
危機にある詩人
この詩篇は第2サムエル記22章に記された、王ダビデが詠んだとされる詩とほぼ同じです。詩人である王が感謝をささげる内容になっています。この詩篇は、王朝時代には王に関する祭儀(セレモニー)で詠われたとも言われています。
表題にあるように、敵である者が詩人に迫ってくる、そのような危機的な状況を推察させます。詩篇の表題はサウル王がダビデの命を狙ったことを記しています。サムエル記の記述によれば、イスラエル王朝初代の王であるサウルは部下であるダビデに対して疑いを持ち、ダビデは厳しい逃亡を強いられました。ダビデは危機を迎えましたが、サウルはペリシテとの戦いの中で命を落とし、サウル王からの追求から逃れることができました。その後もダビデは対外的な戦いや内戦を続けていきます。ときに家族や部下からの反乱にも遭い、命からがら難から逃げることができたことを聖書は報告します。イスラエルは王政へと社会が変革する時代であって動乱期を迎えていました。そのような中で王として指名されたダビデの生涯は決して安寧ではなかったようです。
詩人はまず、神ヤハウェを「わが巌、わが砦、わが岩、わが盾、わがやぐら」と呼び、救い主であり神であると認めます。この比喩は神が揺るぎなく守る者であることを読者に印象づけます。危機の中にあっても自分が命を長らえてきたことを神ヤハウェの守りがあったことを告白しています。危機から脱出した経験は誰にでもあるでしょうが、ある人はそれを偶然と捉えるかもしれません。ある人は単に幸運と理解するかもしれません。ある人は自分の努力のおかげと思うかもしれません。しかし、この詩人はそのようなところに救いの原因を求めてはいません。神ヤハウェのはたらきがあったればこそ私は救われたと告白しています。これは旧約聖書のイスラエルの民が告白してきたことです。例えば、エジプトでの奴隷状態から救い出されたイスラエルの民は、神ヤハウェがその苦しみを知り、働きかけ、民を救い出したと理解してそのように告白してきました。苦しみを経験している人々に共感し、そこから解放しようとするのが神ヤハウェである、そのような確信がイスラエルの民にはありましたし、この詩人も同じ思いを持っています。死を覚悟するような状況にあっても、神は苦しみの叫びを聞きます(6節)。
7-15節では、神ヤハウェの力について詠われています。創造あるいは被造物を通して神ヤハウェは自らの力を示します。ここでは、闇、黒雲、密雲、雹、稲妻など天変地異的な現象に言及されています。旧約聖書ではめずらしい表現です。7節はこの記述を「神の怒り」に関連づけています。怒りの理由は明確ではありませんが、危機に置かれた詩人の状況を比喩的に語っているとも解釈できます。あるいは、神ヤハウェは軽んじられるべきではない、そのように読者に訴えているとも考えられます。
16-24節では、詩人と神ヤハウェとの親しい関係が述べられています。神ヤハウェによる救いについて再び告白されています。詩人は自らを義である者と認めています。神ヤハウェの道を守っているとも自負しています。ここには、詩人が神ヤハウェに従っていこうとする決意が表れています。自分が正しいから神ヤハウェの守りがある、そのような因果応報的な考え方ではないでしょう。
神への感謝、人への感謝
私たちもそれぞれが厳しい状況に追いやられる経験を持っているはずです。同時に、そこから解放された経験もしていると思います。そこに不思議な力を感じることがあるかもしれません。しかし、助けは奇跡ではなく、不思議な形ではないことが圧倒的に多いはずです。私たち自身の能力や努力もそこにはあるはずで、それを誰も否定できません。ですが、神を信じる者たちは、救いの経験に神の恵み、守り、働きかけを見出して感謝をささげます。これは素晴らしいことです。そこには感謝があるからです。感謝は神への応答です。神は交わりを求めています。私たちと信頼の関係を維持することを神は願っています。その関係に基づいて私たちが生き、真の幸福を経験することを望んでいます。
このような感謝は神との関係だけに実現するのではありません。多くの場合、私たちは他の人々から助けられて危機を脱することができます。神は人を通して救いを実現されます。神に関することは、他者への感謝を生み出します。それは人間が互いに信頼によって結ばれることを意味し、再び助け合うことにつながっていくのです。神への感謝をささげたただでは十分ではありません。そこに関わってくれた人々への感謝も求められます。神は私たちを救い助けるために、人を遣わしてくれるのです。同時に、誰かを助けるために私も派遣されるかもしれません。そこに互いの感謝が表明できれば、神が喜んでくださいます。