「王の感謝の歌 その2」

詩篇 18:25ー50

礼拝メッセージ 2023.3.26 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,力を与えてくださる神を賛美するダビデ

強くされる必要

 前回に続いて、詩篇18篇からみことばを見ていきましょう。サムエル記などの記述から、彼は竪琴の名手であったことがわかります。おそらくこの詩を書きながら声を出して祈り、そして祈りながら傍らにあった竪琴の弦を爪弾きながら、歌ったのではないでしょうか。サムエル記第一16章にはこう書いています。「神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。」(23節)。
 この詩篇18篇の25節からの後半の内容は、第一に、ダビデは彼に力を与える神をたたえています。第二に、完全な勝利を与える神をダビデは賛美しています。29節「あなたによって、私は防塞を突き破り、私の神によって、城壁を跳び越えます。」とダビデは言いました。そして32節と39節で、主は彼に「力を帯びさせる」と繰り返して記しています。ダビデの足を「雌鹿のように」してくださり、彼の手や腕を「青銅の弓を引けるように」してくださると言います。
 神は、ダビデの中に力を注いで彼を強くされたのです。日本で言うところの昔の武将や大名のようなものですから、戦いに明け暮れていた人生の日々であったと思います。この詩篇の表題では、サウルとの戦いがあったことを示しています。さらに、国を作ってからの周辺国との絶えざる戦争、そして晩年には息子アブサロムの謀反など、厳しい中を彼は歩んで来たのでした。彼だってもちろん生身の人間でしたから、弱気になったり、意気消沈することも多々あったのだと思います。
 しかし、主は彼に力を帯びさせ、鍛え整えて、真の勇士へと成長させていかれました。旧約聖書には、「強くあれ。」という命令のことばが多く出て来ますが、ダビデも主からそのことばを多く受けていたのでしょう。神からこの命令のことば、激励を受けた多くの信仰者がいました。モーセ、ヨシュア、ヒゼキヤ、ダニエル、ゼルバベルなどです。このようなことばを神がなぜ彼らに語ったのかを考えると二つのことを教えられます。一つは、彼らは主から与えられた使命、務めを果たすために、強くされる必要がどうしてもあったということです。
 時には困難や苦しみに打ちのめされて、逃げ出したり、うずくまってしまうほかないようなときもあります。しかし、倒れたまま起き上がらずにいることはできないのです(箴言24:16、エレミヤ8:4)。ダビデにも、旧約の聖徒たちにも、そして私たちにも委ねられた働きがあるからです。ですから、主は彼らに、そして私たちに聖霊と力とを与えて、ことを行わせてくださるのです。

主にあって、強められなさい

 もう一つは、彼らはそう命じられなくてはならないほどに、元々強くはなかったということです。彼らはむしろ弱かったから、神からあえて「強くあれ」と何度も言われたのです(ヨエル3:10)。ダビデも、自分の弱さ、小ささをよく自覚していました。ですから、神が自分に力を帯びさせてくれなければ、決して主の召しに応えていくことはできない、主のお働きを進めていくことはできないと、知っていたのです。
 使徒パウロは新約時代に歩む私たちすべてに対してこう命じました。「主にあって、その大能の力によって、強められなさい。」(エペソ6:10)。「強められなさい」というのは受動態の命令形です。自分で強くなるのではなく、神によって強めていただくのです。ではどのようにすれば強められるのでしょうか。それが信仰をもって神の前に祈ることであるというのが、この詩篇全体が告げていることです。あるいは、主イエスのおことばによれば、それは「わたしにとどまりなさい。」(ヨハネ15:4)ということになるでしょう。祈りにおいてこそ、私たちは主のもとにとどまり、主の御力と豊かな霊的活力を受けることができるのです。


2,勝利を与える神を賛美するダビデ

戦われる神

 二番目に、ダビデが賛美している内容は、神が彼に勝利を与えてくださるということでした。39節「あなたは、戦いのために私に力を帯びさせ、向かい立つ者を私のもとにひれ伏させました。」とあり、43節「あなたは、民の争いから私を助け出し、国々のかしらに任じられました。」とあるように、37節以降でダビデが歌っている情景は、完全な勝利ということです。旧約聖書には多くの戦い、闘争のイメージがありますが、新約聖書からの視点に立つと、これらは別の次元における戦いのことを私たちに思い起こさせるものです。
 それは神が悪の勢力と戦うお方であるということです。神の敵となるものは、悪魔などの目に見えぬ霊的存在なのか、人間の罪によって堕落した世界の暗黒の力であるのか、明確に表現することさえ難しいことですが、主は今もなお戦っておられるし、その戦いはいつの日か終結し、主の輝かしい勝利で幕を閉じることだけは明らかなことです。
 このことについて黙想していると、讃美歌90番「ここも神の御国なれば」という曲を思い出しました。M.D.バブコックという長老派教会の牧師が自然という被造世界で創造主なる御父を感じ、ほめたたえるという歌ですが、英語のタイトルは「This is my Father’s world」です。その原歌詞の3節に「これは私の父の世界です。忘れてはいけません。悪がしばしば強いように見えることがありますが、それでも神は支配者です。これは私の父の世界です。なぜ私の心は悲しまなければならないのでしょうか。主は王です。天を鳴らせ。神が支配しておられるのです」。この歌詞のとおり、「悪がしばしば強いように見えることがあります」。ダビデもそれを嫌というほど経験し、味わった上で、それでも主こそ真の王であり、統治者であることを告白して、46節で「主は生きておられる!」と賛美したのです。

主はわが岩

 最後に、ダビデが主なる神に向かって、前半でも出てきました「(主は)わが岩」であると語っていることをもう一度心に刻みましょう。46節です。「主は生きておられる。ほむべきかな、わが岩。あがむべきかな、わが救いの神」。前回見ましたように、岩は、砂漠地帯の土地において、日陰を作り、動植物のいのちを守る存在です。また岩は、その裂け目や岩と岩の隙間に逃げ込むことのできる避難所にもなるのです。私たちも心から、この主に向かって、「わが岩」と賛美し、告白しましょう。
 新聖歌229番「千歳の岩よ」という歌があります。これは18世紀の偉大な説教者と言われるオーガスタス・トップレディという牧師が書いた讃美歌です。彼が田舎を旅していたとき、突然嵐に見舞われ、逃げ惑う中で大きな岩を見つけ、その裂け目に避難しました。嵐が過ぎ去るのを待つ間に、この状況を霊的に考えていくうちに、この詩が心に浮かびました。ちょうど足元に紙切れが落ちていたので、それに書いたそうです。「Rock of ages」(「千歳の岩よ」)と。