「イエスの復活」

ヨハネの福音書 20:1ー10

礼拝メッセージ 2023.4.9 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,復活の証拠

20章に続く福音の出来事

 新約学者メリル・テニイが注解書でこう記しています。「十字架において最高潮に達した不信仰の悲劇は、もし復活がなかったなら、永久に未解決の問題として残ったことであろう。イエスの英雄的な身代わりの死は、…何の結果も生み出さないジェスチャーにすぎなかったであろう…善なる神への信仰はすじの通らないものとになり…全くの虚無主義に支配されなければならなかったであろう。」(M.C. テニイ著『ヨハネの福音書』)。テニイが語っているのは、もしイエスのご復活がなかったとしたら、この世界の人々は全くの虚無主義に陥るほかないということです。ヨハネの福音書が19章のイエスの埋葬の記事で終わらず、20章に続いているということ、それが大事なことなのです。それゆえ説教者ウォーレン・ワーズビーがこの20章を「新しい日の夜明け」と名付けたことは正しいことでした。

マグダラのマリアが見たもの

 まず、マグダラのマリアがお墓で見たものですが、それは石の蓋でした。1節後半「マグダラのマリアはやって来て、墓から石が取りのけられているのを見た。」とあります。このギリシア語文を厳密に表現するなら「墓から取りのけられている石を彼女は見る」です。この時代のユダヤ人のお墓は、横穴状にくり抜いて作った石室でした。外側から大きな円盤状の石の蓋で入り口を塞ぐようになっていました。マタイの福音書によるとその石蓋には封印までされていたと書いています(マタイ27:66)。しかし、誰が動かしたのか、大きなその石が取りのけられているのを見、中にイエスの遺体はなかったということを彼女は発見したのです。
 このお墓が空っぽであるということが復活の証拠であるとして、すべての福音書において語られています。奇妙に思われるかもしれませんが、「遺体がない」あるいは本来あるべきものの存在がなかったことによって、復活は証明されるのです。逆に言えば、復活の後、イエスは40日間その御姿を現され、それからオリーブ山上から天に昇られたので、この「空っぽのお墓」という目撃証言こそが重要な証拠ということです。マリアはこのことを目撃して、イエスがご復活されたとは全く考えず「だれかが墓から主を取って行きました」(2節)とペテロともう一人の弟子に告げ知らせました。

ペテロともう一人の弟子が見たもの

 次に、マリアの知らせを聞いたペテロともう一人の弟子は、すぐに墓へ向かいました。マリアもこの知らせのために彼らのもとへ走りましたが、二人もやはり走ってお墓へと急ぎました。もう一人のほうが足が速かったのか、それとも近道を知っていたのか、先にお墓に着きました。彼はすぐに墓の中には入らず、外側から覗き込みました。そこで遺体を包んでいた亜麻布が見えました。遅れて到着したペテロは躊躇せず、墓の中に入って行って、中にあったその亜麻布と、イエスの頭を包んでいた布を見ました。そしてもう一人の弟子も墓の中に入って、同じように亜麻布と頭を包んでいた布を見たのです。
 ヨハネの福音書が伝えようとしていることは、この二人の弟子たちが墓の中で亜麻布と頭の布を見たことが第二の証拠であるということです。なぜ、これらの埋葬の布が墓に残っていることが復活の証拠となるのでしょうか。もし、墓泥棒などが来て、イエスの遺体を盗んでいったのなら、亜麻布で包んだまま運び去るか、もしくは布を引き裂いて持ち去ることになるので、墓の中は散らかっていたはずです。ところがそうではなかったのです。「イエスの頭を包んでいた布は、…離れたところに丸めてあった。」(7節)とあり、第三版までの訳では「巻かれたままになっている…」と訳されていました。


2,見て信じた人たち

 「見る」ということばに注目すると、最初、1節のマグダラのマリアは、墓の石が取りのけられているのを見て、そして弟子たちのところに行き、主のご遺体が誰かに取られたと言いました。二番目に、ペテロは墓の中に入って、亜麻布と頭に巻いてあった布切れを見ましたが、その後のリアクションは記されていません。三番目に、もう一人の弟子は、亜麻布と頭の布を見ただけで終わることなく、「そして見て、信じた」(8節)と記しています。
 9節に、彼らがまだ聖書を理解できておらず、十分に悟るところまでのものではなかったとありますが、この「もう一人の弟子」、ヨハネは「見て、信じた」のです。20章全体、そして本書全体の大切な強調は、ずばり「イエスを信じる」ことです。結語とされている20章31節にはこうあります。「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」。
 それで、このあと20章では、マグダラのマリアが復活のイエスに出会い、「私は主を見ました」と証ししたことが書いてあり、他の多くの弟子たちは復活の「主を見て喜んだ」のでした。そして24節からは、「私は決して信じません」と言ったトマスが主を見て、「私の主、私の神よ」と告白します。復活のイエスご自身による御思いがそこで明言されます。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」(20:29)。


3,見ないで信じる私たち

 私たちは初代教会の主の復活の目撃者たちのように、自分の肉眼で復活された主を見たり、触れたりして、確認することは残念ながらできません。今日のお墓の記事のように、空の墓、亜麻布、巻かれたままの布切れをただ見ただけのようなものです。いや、それすら彼ら目撃者たちの歴史的証言を信頼して、信じるか信じないかを決めなくてはなりません。しかし、覚えておく必要があることは、これまでキリスト者となった大多数の人々は、「見ずに信じる者」でした。ペテロは言います。「あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。」(Ⅰペテロ1:8)。
 冒頭でテニイという学者のことばを紹介しましたように、もし復活がないのなら、私たちは虚無主義に落ち込むか、現実逃避のロマン主義で生きるよりほかないと思うのです。どうせだめだという諦めや、とてつもない悲観主義に支配されてしまうわけです。しかし、聖書が語るイエスの復活は、信じるすべての人たちにとって、新しい夜明けを、生きていく真の力を与える真理です。最初の復活は起こったのです。そして私たちは死んですべてが終わりではなく、死が新しい始まりとなる。したがって主の復活によって、もはや何もなかったかのごとくに、私たちは生きていくことはできません。死を越えた新しい世界がもう始まっています。見ずに信じる私たちには、真の幸いがあるのです。