「王のための祈り」

詩篇 20:1-9

礼拝メッセージ 2023.4.23 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.主への信頼の祈り(1-5節)

 7節で「戦車」「馬」という言葉が使われていることから、この詩篇は「旗の歌」「出陣の歌」と呼ばれることがあります。礼拝をささげて、出陣していくダビデ王のために、会衆(あるいは合唱隊)が勝利と無事を主に祈った歌であると言われています。
 5節までの間に、「あなた」のために「〜なりますように」という祈りが7回もなされています。この「あなた」の対象が王であることや、戦いに関連した祈りであることは、6節以降で、よりはっきりと分かります。
 この祈りの中で一貫しているのは、王に力があるのではなく、王を支える神に力があり、栄光があるということです。王を崇める祈りではなく、王を助け、支えてくださる神に対する信頼の祈りなのです。
 1節の「ヤコブ」は、イスラエル民族全体を表しています。かつてヤコブを多くの苦難から救い出してくださった神が、王のために勝利を与えてくださるようにと願っています。2節については、神の助けは、神が済んでおられる聖所からお送り出されるものと信じられていたため、「聖所」「シオン(神殿が建てられている場所)」から、「支えられますように」と祈られているのだと思われます。
 3節では、「穀物のささげ物」「全焼のささげ物」について言及されています。これらはレビ記1-2章に規定されており、出陣の時にささげ物がささげられ、レビ人と会衆が声を合わせて歌ったようです(Ⅰサムエル7:9,13:9)。
 そして、4-5節では、王の計画や願いを主がすべて遂げてくださることが祈られています。イスラエルの民が主に信頼しているだけではなく、王に対しても信頼している姿がうかがえます。王と民の心がひとつになっていなければささげられない祈りです。神の民の王は、神のみこころに沿った計画や願いを立てるリーダーである必要があります。
 また、「私たちはあなたの勝利を喜び歌い 私たちの神の御名により旗を高く掲げます(5節)」とは、すでに主にある勝利を確信しているような言葉です。「旗を掲げる」とは、来るべき勝利のしるしとして、主のご臨在を象徴する行為でもあると考えられています(出エジプト17:15)。会衆は、「〜なりますように」という祈りをささげながらも、力ある神がともにいてくださっていることに完全な信頼を置いていることがわかります。
 会衆による王のための祈りには、最初から最後まで、力ある真の神への信頼が見られます。そして、そこには主に対する信頼だけではなく、そのような神に従う王に対する信頼もあったことでしょう。


2.目に見える実際の軍事力よりも(6ー9節)

 6節で、「わたし」という主語に切り替わります。この部分では、これまでの祈りが答えられたという確信が表明されています。5節までの祈りが会衆(あるいは合唱隊)のものであったとすれば、この部分は、実際には祭司あるいは預言者が宣言したものだと言われています。
「油注がれた者」とは王のことです(6節)。王の任職の際には「油を注ぐ」という儀式が行われることが慣例でした。イスラエルの民は、実際の軍事力よりも、主が王をお選びになったことに根拠を置いて、必ず救ってくださることを確信しています。重要なのは戦車や馬ではありません(7節)。国の十分な軍備に依存するのではなく、神への信頼によって、安心を得ています。この時の王をダビデとするならば、ダビデの少年時代のゴリヤテとのたたかいが思い起こされます。また、さらに遡ると、戦車や馬を誇ったエジプト軍は海に沈んだというイスラエルの救済の歴史をも思い起こされます(出エジプト14:28)。
 そして、最後の9節は結びの祈りであると言われています。この祈りをささげて、出陣していったのではないでしょうか。

 この詩篇の祈りから、共同体がひとつになって主に信頼すること、そして、立てられたリーダーがふさわしく主に用いられ、祝されるように会衆で祈るべきことを教えられます。主にある共同体のリーダーが受ける祝福は、共同体全体の喜びでもあります。
 イスラエルの民の祈りからは、素晴らしい信仰を見ることができますが、彼らが常に目に見える誘惑に陥らず、主への信頼を貫き通していたのかというと、おそらくそうではなかったでしょう。だからこそ、教会で主への信頼を共に確認し続けたいと思います。力ある真の神、主が共にいてくださることに信頼して、私たち教会が歩んでいくことができるよう、続けて共に祈ってまいりましょう。