「見失うことがないように」

テモテへの手紙 1:1-8

礼拝メッセージ 2023.6.25 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1.パウロから、信仰による、真のわが子テモテへ(1-2節)

  1-2節は手紙のあいさつ文で、送り主・受取人・祝福の祈りが記されています。送り主パウロと、受取人テモテは、師弟あるいは親子のような関係でした。
 受取人のテモテは、小アジアのルカオニヤ地方リステラ出身で、ユダヤ人の母親と、ギリシア人の父親のもとに生まれ、評判の良い人だったようです。(使徒16:1,3)。また、テモテへの手紙第二からは、祖母ロイスと母ユニケより信仰を受け継ぎ、幼い頃から聖書教育を受けていたことがわかります(Ⅱテモテ1:5,3:15)。
 送り主パウロと言えば、1世紀に最も活躍した伝道者のひとりだと言えます。彼は回心してキリスト者となった後、あらゆる町の人々に福音を宣べ伝えました。また、その町を離れているときも教会の人々を思い、手紙を通して多くのクリスチャンの信仰を励ましました。そんな彼の第2回伝道旅行において、同労者として選ばれたのがテモテでした(使徒16:1以下)。その頃、テモテは20歳前後だったと言われています。
 テモテは、パウロの同労者として働きを共にしました。そのなかで、伝道者としてキリストに仕える姿をパウロから学んでいたことでしょう。そればかりではなく、パウロが町を去ったあとも、その地方にとどまって働きを続けたり、パウロの代理として派遣されたりすることもありました。このような重要な役割を任せられていることから、パウロから見ても、テモテは頼もしい弟子だったことが想像できます。

 テモテへの手紙が書かれたのは、おそらく彼が30歳前後の頃で、パウロが殉教する少し前の64-65年頃だったと考えられています。マケドニア地方からエペソにいるテモテに書き送られた手紙だと思われます(3節)。パウロの「信仰による、真のわが子テモテへ」という言葉からは、パウロの深い愛情が伝わってきます。かつて働きを共にした次世代のテモテに対して、師弟関係以上の、キリストにある信頼関係があったのでしょう。
 送り主パウロの紹介には、「私たちの救い主である神と、私たちの望みであるキリスト・イエスの命令によって、キリスト・イエスの使徒となった(1節)」と説明されています。年齢や経験的な「先輩」として書いているのではなく、あくまで「キリスト・イエスの使徒」として書き送っているということです。これは、テモテにとっては以前からわかりきっていることだったでしょう。しかし、当時は手紙が教会で読まれることも想定されていたと考えられます。つまり、これはテモテの牧会者としての権威を疑っている人々から、彼の権威を守り、確立するための配慮だったと読むこともできます。このパウロからの手紙は、苦労していたテモテの励ましになったばかりか、手紙の存在そのものが彼の働きの助けになったのではないでしょうか。


2.パウロの命令と、その命令が目指す目標(3-7節)

⑴ 違った教えを説いたり、果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように命じなさい(3-4節)。

 パウロは、まず上記の「違った教えを…(3-4節)」と教えています。テモテがエペソの教会で最も苦労しており、パウロも懸念していたのは、偽教師の存在だったようです。パウロはこのことについて、以前から「私が去った後、狂暴な狼があなたがたの中に入り込んできて、容赦なく群れを荒らし回ります。また、あなたがた自身の中からも、いろいろと曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こってくるでしょう。ですから、…目を覚ましていなさい(使徒20:29-31)」と、注意深く教えていました。しかしながら、エペソの教会はその後、パウロが懸念していた通りの事態に陥ってしまったようです。
 「作り話(4節)」とは、テトスへの手紙1章14節の「ユダヤ人の作り話」と共通していると考えられます。旧約聖書を誤って理解していました。「系図(4節)」とは、旧約聖書の系図について、名称の由来等を神話的に思弁化したものを指していると思われます。

⑵ この命令が目指す目標は、きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛です(5節)。

 パウロが上記のように命じているのは、「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」を目指しているからでした。ある人たちがむなしい議論に迷い込んでいるのは、これらのものを見失っているかたらだと言います。
 パウロから見て「違った教えを説いたり(3節)」している人たちは、もちろん自分が間違っているとは自覚していません。「律法の教師(7節)」とは、律法(旧約聖書)を公に教えることのできる人のことです。「律法の教師でありたい」と願うのも、純粋な動機ではなく、権威を求めていたのかもしれません。律法の意味や目的を正しく理解していないまま読んでいるので、間違った解釈に進んでいってしまったのでしょう。
 私たち教会も、聖書の解釈や牧会上の様々なことを議論するうえで、大切なことを見失うことがないように心がけていきましょう。旧約聖書の律法も、キリストが語られた教えも、すべてが愛に根ざすものです。私たちも、パウロが教えているように、「きよい心と健全な良心と偽りのない信仰から生まれる愛」を目指してまいりましょう。