詩篇 29:1ー11
礼拝メッセージ 2023.9.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,栄光と力を主に帰せよ(1〜2節)
自然界をも支配する主
暴風雨や雷、森林火災や洪水などを連想させる今日の詩篇は、大規模な自然災害が様々なところで頻発し、脅威を感じている現代の私たちには、インパクトが強すぎる内容に感じるかもしれません。歴史や人間の社会に関わられる神が、自然、被造世界においても、大いなる主権をもった方であることを示すことが必要だったと、ある聖書学者はこの詩篇の書かれた背景について解説していました。当時、カナン地域に住む古代の人々は、自然を支配し、雷を鳴らし、雨を降らせて、豊穣をもたらすのは、バアルという神々によると考えていたからです。そうではなく、ヤハウェ、主なる神こそが歴史と人間のみなならず、自然界をも支配しているのだと伝えることにこの詩篇の主眼点があったというのです。
すべての主権者である神
さて、1節と2節で「主に帰せよ」という命令が繰り返されています。この「帰せよ」というヘブライ語の中心の意味は、「与える」ということです。「主に与えよ」とはどういうことでしょうか。本来、私たち人間が神に与えることのできるものは何一つありませんが、「栄光と力」は神のものであるのだから、それを人間が受け取ってはならないということです。これは、神がいかなるお方であるのかをよく知って、当然帰すべき栄光、栄誉を神に捧げなさい、主だけを賛美しなさい、ということです。
初代教会の時代、ユダヤ等を統治していたヘロデ大王の孫、ヘロデ・アグリッパ一世が立派な王服をまとって人々に演説したとき、聴衆は「神の声だ。人間の声ではない」と叫び出したことが、使徒の働き12章に書いています。しかし、主の使いが即座にヘロデを打ち、彼は息絶えました。そうなった理由をルカは厳粛に「ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである」(使徒12:23)と書いています。権力者だけでなく、今の時代はいろいろなところで人間中心主義が絶対真理かのようになっています。人間の高ぶりが頂点に達しているように感じます。それは他者のことだけでなく、自分自身も知らず知らずのうちにその空気に飲み込まれてしまっているのではないかと思います。
逆さま神学
たとえ信仰を持っていても、どれだけ神に栄光を帰すことに、自分の思いがあるのかを自問しなければならないのです。ミラード・エリクソンが神学書で警告として記していたことですが、神こそがすべての主権を持たれ、このお方に対して私たち人間が恐れを持って、仕え従っていくことこそが、聖書の語るメッセージです。ところが、人は神を宗教儀礼的には礼拝して崇めていても、いつの間にか神を自分たちのしもべ、召使いのように考えてしまっていると。神は人間の願いや要求に答えるべきであって、もしそれらを満たさないのなら、そんな神は必要ではないと考えてしまうというのです。英語ではそれを「インバーテッド・セオロジー」(inverted theology)と言うそうです。逆さま神学、あべこべ神学ということでしょう。
この詩篇はそのようなあり方、考え方を根本から打ち砕いて、私たちが正しく、神中心、神だけに栄光を帰す生き方に立ち返るように促すのです。「栄光と力を主に帰せよ。御名の栄光を主に帰せよ。聖なる装いをして主にひれ伏せ」(1〜2節)と呼びかけるのです。
2,主の声におののけ(3〜11節)
主の声と雷
続いて、3節以降を見ていくと、「主の声」という繰り返しの表現の中、その御声がいかに力あるものなのかを、明らかにしています。主なる神の御声とは、主の語られることばの力をここから知ることができます。ヘブライ語表現では「コール・アドナイ(あるいはヤハウェ)」です。「コール」が「声」です。3節に「主の声は水の上にあり、栄光の神は雷鳴をとどろかせる。」と始まるこの中心部分は、七回の雷の響きを歌っていると想像した人もあります。この「主の声」と「雷」との繋がりは、ヨハネの黙示録10章にあります。「獅子が吼えるように大声で叫んだ。彼が叫んだとき、七つの雷がそれぞれの声を発した。七つの雷が語ったとき、私は書き留めようとした。すると、天からの声がこう言うのを聞いた。『七つの雷が語ったことは封じておけ。それを書き記すな。』」(黙示録10:3〜4)。この「七つの雷」ということばが、詩篇29篇に七回出て来る「主の声」のことを元にしていると言われています。
主のことばの創造力と破壊力
ここで注意して読まなくてはならないのは、主の声は、雷や炎そのものではないということです。雷や自然現象は、一つの詩的イメージであり、詩人が強調しているのは、神の声の力です。主のことばがこの天地を創造し、主のことばが自然と歴史を動かしているということです。「…あれ」、「生じよ」、「増えよ」という主の号令によって、すべてが生まれたのです。神の声の力は、主の恵みのうちに呼びかけられ、罪人をご自身のもとに引き寄せるのです。レバノンの杉の木々を打ち砕く神の声の力は、頑なな人間の高慢な心を粉砕するのです。
預言者エレミヤに主はこう語られました。「わたしのことばは火のようではないか―主のことば―。岩を砕く金槌のようではないか。」(エレミヤ23:29)。そしてイザヤを通して、こう言われました。「わたしが目を留めるもの、それは、貧しい者、霊の砕かれた者、わたしのことばにおののく者だ。」(イザヤ66:2)。
祖父も父も牧師だったドイツ文学者の小塩節さんが過去を回想して書いた記事を読みました。礼拝説教がこわくて恐ろしいものと子ども心に感じていたそうです。父親が説教準備をする金曜日夜から、牧師館全体は緊張に包まれたようになり、子どもであった彼と妹はその間、物音一つ立てられず過ごしたそうです。そして3、4歳頃から彼はこう思うようになったと記しています。「牧師という者は聖書の中にとびこみ、十字架に体当りしてその血を浴び、イエスさまのお心のうちを礼拝の中でみんなにお話ししているのだ。」と(「説教黙想アレテイア70号」)。小塩さんの記事やこの詩篇を通して、主のことばへの正しい畏敬を、私もどこかに置き忘れてはいないか、心探られる思いです。
主を恐れて生きる幸い
主を恐れ、主に栄光を帰し、主のことばにおののいて歩むこと、それはしかし、何もびくびくして毎日を生きるということではありません。そうではなく、10節と11節にありますように、嵐吹く闇夜であろうが、逆風の吹き荒れる困難な状況であろうが、主はどっしりと静けさの中で御座に着いておられることを心に覚えて、私たちは平安のうちに生きられるということです。永遠に不変で不動なるこの方だけが、私たちに真の力を与え、真の平安をもって祝福くださることを確信して、力強く歩みなさいということなのです。