「見よ、神の子羊」

ヨハネの福音書 1:29-34

礼拝メッセージ 2023.9.10 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


ヨハネの登場

 ヨハネ福音書1章の中盤には、ヨハネという人物が登場します。このヨハネはこの福音書を記した人物とは違います。この福音書には直接には記されていませんが、ヨハネはイエスに洗礼を授けました。そこで、洗礼者ヨハネと呼ばれています。
ヨハネには役割が与えられていて、イエスを指し示し、イエスについて証言することでした。それは1章の中で繰り返し述べられています。イエスに洗礼を授けたということは、ヨハネはイエスの師匠に当たり、イエスよりも優れた立場にいると誤解を受けかねませんでした。そこで、イエスを執拗に証言する必要があったのです。


ヨハネの証言

 イエスについてのヨハネの証言は、29節の「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」という言葉に集約されています。この「子羊」という言葉は旧約聖書に記された幕屋礼拝や神殿礼拝を思い出させます。また、旧約聖書のイスラエルの民がエジプトを脱出した時に起きた過越しをも連想させます。


【コラム】過越し

 出エジプト記11-12章に記されています。イスラエルの民を奴隷としていたエジプトへの裁きが下り、エジプト全土の初子がその裁きによって殺されました。しかし、玄関に子羊の血を塗った家をその裁きは過越して、その家は裁きを免れることができました。
この子羊は犠牲でした。人々の救いにはなんかの犠牲が伴い、それが求められるという考え方が表明されています。


「神の子羊」としてのイエス 

 ヨハネはイエスを「神の子羊」として紹介しました。イエスは犠牲を払ってこの世の罪を除くのです。キリストとは「油注がれた者」(メシア)であり、神によって特別に選ばれた統治者というイメージがありました。しかし、イエスはキリストとして犠牲となり殺されるのです。当時のユダヤ人の常識からすれば、メシアが殺されるはずはなく、殺されるのであればその者はメシアであるはずはないのです。
 ヨハネの福音書は、神による真の救いはそのような当時の人々の期待を見事に裏切ったことを示します。人々は自分が正しいと考えていたことを変えざるを得なくなり、神の救いは人間の身勝手な期待を超えて行くことを分からせてくれるのです。


犠牲というイメージ

 実は、ヨハネ福音書には、イエスが犠牲にささげられたというイメージはあまり出てきません。ヨハネ福音書が語る十字架は栄光という意味の方が強いのです。「神の子羊」という言葉は、犠牲について書かれている数少ない箇所の一つであると言えます。罪とは人間が自分勝手に生きることですが、その結果、人間は取り返しのつかないことをします。神との関係が壊れ、人間同士の関係も破壊され、自分をも受け入れられなくなります。そのような罪の状態を除くために犠牲としてイエスはささげられました。同時に、この犠牲はイエスで終わったことを確認したいと思います。それは、私の罪の責任を誰かに押し付ける生き方でではなく、神と人との前で自らの責任を負う生き方を意味します。世の罪を除く理由は、私たちが神のみこころに適って生きることです。新たに誰かを犠牲にする歩みではなく、また私たちの罪を誰かに負わせる生き方でもありません。新たに人々が神の恵みに生きるように、私たちもそれに適う生き方をしたいものです。