「味わい、見つめよ」

詩篇 34:1ー22

礼拝メッセージ 2023.9.24 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,何が「幸福なこと」なのか

 「幸いなことよ」(8節)と書かれていますが、価値観が多様化するこの時代、ますます「何が幸せなことか」わからなくなって来ているように感じます。私自身、どうして教会に来たのかと振り返ると、「幸福とは何か」、人間にとって最も大切な真理が知りたくて、集うようになったと思います。その契機となった聖書の文章が、マタイの福音書5章の山上の垂訓であり、「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)ということばでした。貧しいことはふつうに考えると辛いことだし、実際は不幸であるはずなのに、イエスはどうして「幸いである」と言われたのか、「幸い」と言い切られたのか、そのことばの激しさに表現できないような衝撃を受けました。今回の詩篇34篇は、アルファベット詩篇の形式で記されていますが、まさに「貧しい者の幸い」が語られています。2節に「貧しい者はそれを聞いて喜ぶ」とあり、6節の「この苦しむ者」は、「貧しい者」とも訳せることばです。


2,「貧しい者」とは

 詩篇34篇が描く、「貧しい者」とは、経済的に困窮している人だけにとどまらない意味を持つことが全体からわかります。この「貧しい者」は、次のように言い換えられています。6節「苦しむ者」、7節「主を恐れる者」、8節「主に身を避ける人」、9節「主の聖徒たち」、10節「主を求める者」、15節「正しい人たち」、18節「心の打ち砕かれた者」、「霊の砕かれた者」と、多くの表現で「貧しい者」のことが明らかにされています。これらの中から、注目したいのは「貧しい者」とは、苦しみを抱え、主の中に逃げ込まなくてはならないほど追い詰められ、心や霊が打ち砕かれてしまった状態の人々を指しているということです。


3,ダビデの窮乏の経験

 この詩篇の表題にそれがよく表されています。「ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。」と書いています。これは、サムエル記第一21章に記されている出来事を言っています。ダビデはサウル王に追われていました。サウルは、ダビデのことを自分の王位を脅かす危険な存在と見ていました。それでサウルは血眼になって彼を探し、命をつけ狙っていたのです。逃亡中のダビデは荒野の洞窟などを転々として隠れていましたが、敵国だったペリシテのガテの領主アキシュのところへ逃げ込まなくてはならないほど追い詰められていったのでした。
 それは一か八かの亡命だったのでしょう。ところが、アキシュや家来から疑惑の目で見られ捕まってしまい、命の危険を感じたダビデは、狂人の振る舞いをしてようやくその難を逃れたのでした。サムエル記第一21章12節と13節を見ましょう。「ダビデは、このことばを気にして、ガテの王アキシュを非常に恐れた。ダビデは彼らの前でおかしくなったかのようにふるまい、捕らえられて気が変になったふりをした。彼は門の扉に傷をつけたり、ひげによだれを垂らしたりした」。
 あの偉大なダビデが、なんと無様な姿を人々の前で晒したのでしょうか。勇敢な武将ダビデなら、正体がバレてペリシテに捕まった時点で、「こうなった以上、仕方がない。殺したければ、さあ殺せ。」と言っても良かったはずです。しかし、おそらく彼なりの考え、あるいは信仰の思いがあったのでしょう。一芝居演じて、ひげによだれを垂らすことまでしても、ここは生き延びなくてはならないと考えたのだと思います。
 しかし、この詩篇でこの何とも言い難いようなダビデの出来事を表題にしているのは、貧しい者の生き延びるための必死さ、いや貧しいとはこういう抜き差しならぬ窮地に追い込まれている状態のことなのだ、と読者に示すためだったと私は思います。


4,幸せを見る生活

 もちろん、こういう状態を皆が経験する訳では無いと思います。しかし、主が金持ちが天の御国に入るのは、らくだが針の穴を通るよりも難しいと言われたことは真実です。事の大小はあっても危機的状態を経験することで、人生の骨組みが見えて来て、何が最も大事なことなのか、多くの場合、人は気づくことになるのです。
 また、それと同時に、どんな状態であっても、たとえ満たされ、恵まれた状態にあったとしても、主に愛されていることがわかり、主の豊かさに満たされ、味わうことは可能であると思います。今は恵みの日、救いの日だからです。そのような歩みをするための秘訣と言っても良いこと、すなわち人生訓のようなものが、この詩篇の12節から16節に記されています。「いのちを喜びとする人はだれか。幸せを見ようと、日数の多いことを愛する人は。」と始まっていますが、まさに「幸い」な人生を送る上での教訓がその後に続きます。


5,祝福に召された者

 これら16節までの文章は、使徒ペテロによって第一の手紙で引用されています。「いのちを愛し、幸せな日々を見ようと願う者は、舌に悪口を言わせず、唇に欺きを語らせるな。悪を離れて善を行い、平和を求め、それを追え。…。」(Ⅰペテロ3:10〜11)。そしてペテロはその引用の前に、こう記しています。「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(同3:9)と。私たちキリスト者は、「祝福を受け継ぐために召された」のであると言います。この「祝福」こそ、まさに「幸い」、「幸福」にほかなりません。さらに言えば、かつて族長アブラハムに対して、神はこう言われました。「あなたは祝福となりなさい」と(創世記12:2)。私たちはこの世界が言うところの「幸福な人間」になると言うよりも、変な日本語ですが、「祝福の人間」になるということです。ペテロがその第一の手紙で書いているように、それはキリストの足跡に従うということです(Ⅰペテロ2:21〜25)。
 そのような祝福に召された生き方には、多くの恵みがありますが、いろいろな困難に直面することもあります。19節で言うように「正しい人には苦しみが多いのです」。でも続きがあります。「しかし、主はそのすべてから救い出してくださる」のです。この約束は神によるものですから絶対に信頼して良いのです。D.ボンヘッファーが19節について次のように記しています。「正しい者はこの世で悩む。正しくない者は悩まない。正しい者は、世界に起こる不義に、世界に起こる転倒した無意味な出来事に悩む。…(中略)…人がこのように悩むかどうかによって、われわれはその人が正しい者であるのかどうかを見分けることができる。…(中略)…正しい者の悩みには、いつも神の助けがある。なぜなら、正しい者は、まことに神と共に悩むからである。」(『主のよき力に守られて』村椿嘉信訳 新教出版社)。今日のタイトルのように、そのようにして幸いな道を歩むことにおいて、私たちは「主がいつくしみ深い方であることを、味わい、見つめることになる」のです。