「あなたの光のうちに」

詩篇 36:1ー 12

礼拝メッセージ 2023.10.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,罪は語りかける

 詩篇36篇は最初のところで、「罪からの語りかけ」について書いています。1節の文章ですが、これまでの訳(『新改訳聖書 第三版』)と大きく変わりました。『新改訳2017』は「私の心の奥にまで、悪しき者の背きのことばが届く」ですが、以前の訳では「罪は悪者の心の中に語りかける」でした。第三版までは「心の中」とは、悪者の「心の中」と理解されていましたが、ヘブライ語本文には「私の心の中」となっているので、『新改訳2017』では、そこが修正されました。ただ、そうすると「罪が…語りかける」という部分と「私の心の中」、そして「悪しき者」がどう繋がるのか、理解が複雑になります。
 それで、この1節の最初は「悪しき者の」と言うよりも、「悪しき者への」と理解したほうが私は良いと思っています。そうすると、「私の心の奥にまで、悪しき者への背きのことばが届く」となります。これはどういうこと言えば、詩篇作者(ダビデ)は、自分の心の中で、悪しき者が罪(背き)から語りかけを聞いている情景を想像しているということになります。たとえば、聖書協会共同訳では「背きの罪が悪しき者にささやくのが、私の心に聞こえてくる」と訳しています。


2,罪が誘惑してくる

 そもそも人はなぜ、罪を犯してしまうのだろうか。それを作者はこの1節から4節で示したと思います。罪という得体の知れない存在者が、人にささやきかけて誘惑し、「自分を偽る」ように働きかけ(2節)、「不法を謀って」(4節)、悪を行うように仕向けて、動かしているということです。ここでは「罪」が擬人化されています。「悪しき者」に向かって「罪」自体が語りかけています。まるでドラマや映画のワンシーンでもあるかのように、詩篇作者はそれを外側から描いて見せています。「悪しき者に向かってささやく罪の声が、あなたにも聞こえるだろう」という意味で、「私の心の奥にまで」と書いているのでしょう。
 これに似た表現は、他の箇所にも見られます。たとえば、創世記4章7節で、神がカインに言われています。「罪」は人間に対して、「戸口で待ち伏せ」して待っており、罪を犯させようと「恋い慕って」まとわりついてくる(ヘブル12:1)と。しかし、神は仰せられます。「決してその誘いにのってはならない。むしろ、それを治めよ」と命じています。


3,詩篇は警告する

 この詩篇は、最初の1節から4節までで、悪しき者についての描写があり、5節から9節では、主を信じる正しい者の道が説かれ、最後の10節から12節は祈りと悪しき者の結末が書かれています。ここに「悪しき者」と「正しい者」との対比が描かれていることから、詩篇1篇との共通性を見る人もいます。けれども、この詩篇36篇の教えの特徴は、両者をステレオタイプ的に見て、人は「悪しき者」と「正しい者」との二種類に分かれることを伝えるために書いていないということです。そうではなく、たとえ信仰を持つ者であっても、人はだれでも「悪しき者」となり得るのだと、警告しているのです。
 箴言が次のように語っています。「わが子よ、注意して私のことばを聞け。私の言うことに耳を傾けよ。それらを見失うな。自分の心のただ中に保て。それらは、見出す者にとっていのちとなり、全身の癒やしとなるからだ。何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く。」(箴言4:20〜23)。表題にもこの詩篇の記された目的が示唆されています。「指揮者のために。主のしもべ、ダビデによる。」とありますが、この「主のしもべ、ダビデによる」の「主のしもべ」は、単にダビデの呼び名や称号という意味ではなく、「主のしもべについて」と訳したほうが良いと言われています。もしそれが正しいなら、表題は「指揮者のために。主のしもべについて。ダビデによる。」となります。つまり、作者はこの詩を人々への教育的なことばとして記し、主に仕えるしもべはこうあるべきだ、ということを教えたのです。


4,人は罪を犯すことによって悪しき者となる

 1節から4節は、人が罪に陥る現実を描くことにより、「悪しき者」が罪を犯すのではなく、罪を犯すことによって「悪しき者」が形造られていくことを示し、注意を促しています。「罪」からの語りかけを受けて、この人は、最初に「神に対する恐れ」(1節)を失っています。そして自分の中に「咎」(2節)を見つけますが、それを捨てることはありません。
 次に、その人のことばも「不法と欺き」(3節)となります。間違ったことを語り、神を欺き、自分を欺き、そして他人を欺くことになります。そして3節にあるように、神の御前に賢い歩みをするということ、そして正しく良いことをやめてしまいます。なぜそうなるかと言えば、そんなことはムダであると思ってしまっているからでしょう。結局のところ、何をしても同じだと考えて諦めてしまい、底なしの虚しさと暗闇を抱えてしまっていることが示されています。ヤコブの手紙には「欲がはらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます」(ヤコブ1:15)と書いています。


5,主のしもべとして生きる

 では、この罪の語りかけに対して、惑わされずに歩むためには、どうすれば良いでしょうか。それが5節からの内容です。第一に、いつも主を見上げることです。5節から9節までを見ると、神に対して、しっかりと心を向けて賛美している様子が伺えます。主は、「恵み」、「真実」、「義」なるお方であると、天を見上げて高らかに歌っています。「主よ、あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は、高くそびえる山。…」と賛美されています。私たちの心の目を、興味と関心を、つねに変わらず、主に向け続けるのです。
 第二に、主のもとへ逃げ込むことです。7節に「人の子らは、御翼の陰に身を避けます」とあります。試練のとき、誘惑に会うとき、「御翼の陰に身を避ける」のです。ルターは、次のように書いています。「私は小さい詩篇の書物を持って自分の部屋へ急ぐか、あるいはちょうど日や時刻がよいならば教会の集まりに行き、十戒と信仰告白を唱え始める。さらに時間があれば、パウロのことばか詩篇のことばからいくつかの箇所を、ちょうど子どもがするように、口に出して自分自身に言い聞かせる。」(『ルター選集1 ルターの祈り』聖文舎)。
 第三に、主に満たされ続けるということです。8節に「あなたは、楽しみの流れで潤してくださいます。」とありますが、この「楽しみ」と訳されたことばは、ヘブライ語で「エデン」です。創世記2章に描かれている「エデンの園」の「エデン」です(創世記2:8)。「エデン」とは、「よく潤された所」という意味です。イエスがサマリアの女に言われたことを思い起こします。「わたしが与える水を飲む人は、いつもまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(ヨハネ4:14)。