「きよい手を上げて祈りなさい」

テモテへの手紙 第一 2:8-15

礼拝メッセージ 2023.10.15 日曜礼拝 牧師:太田真実子


 今回の箇所は、「男たちは」「女たちは」という教えが中心となっています。パウロは教会で起こる実際的な問題から、男女で異なる傾向とそこにある弱さを感じていたようです。つまり、「男性はこのような弱さを持っている傾向があるので、こういう勧めが必要だ」という意図で、「男は〜」と教えているのです。
 パウロが言うように、性別による傾向の違いはたしかにあるでしょう。しかし、一般的に「男性的」「女性的」と言われていることがすべての人に当てはまるとは限りません。ですから、私たちはどちらの教えも自分のこととして聞く耳を持ち、しっかりと受け止めたいと思います。


1.きよい手を上げて祈りなさい(8節)

 8節で強調されているのは、「どこででも(あらゆる場所で)、祈りなさい」ということです。もちろん、男性だけに「祈り」を勧めていると解釈すべきではありません。今回の箇所の直前でもパウロは、テモテと教会の人々に祈ることを勧めています(2:1)。ですから、「どこででも祈る」ということにおいて、やはりパウロは特に男性たちに弱さを感じていたのでしょう。人目につかない場所でも、どこででも祈っているでしょうか。誰かと一緒に祈るときだけ、敬虔なクリスチャンであるように見せようとしてはいないでしょうか(マタイ6:5-6)。
 「きよい手を上げて」は、祈りの所作の問題ではありません。聖書の中にある他の祈りの箇所を見ても、特定の所作が強調されていることはなく、祈りの姿勢は多様であることがわかります。「きよい手を上げて」とは、神を恐れ、神に倣いきよく歩みたいと願うことです。きよく歩みたいと祈るよりも先に“怒ったり言い争ったり”してはいないでしょうか。自分の考えが絶対だと思い、怒りを正当化してはいないでしょうか。怒りや言い争いは、祈りの妨げになります。
 私たちは、場面に振り回されず、どこでも共にいてくださる主を覚えて、どこででも祈る者となりましょう。そして、主との交わりの中に歩む日々とさせていただきましょう。


2.良い行いで自分を飾りなさい(9ー10節)

 次に、女性たちに勧められています。パウロは身なりについて具体的に教えていますが、ポイントは「私たちの関心はどこに向かっているのか」ということです。周りからの評価に関心を向けすぎるのではなく、神の子としてふさわしく、神に喜ばれる行いにこそ関心を向けるべきことを励ましています。
 「はでな髪型」「金」「真珠」について触れられていますが、これを現代のファッションに当てはめてルール化してしまわないようにしましょう。そもそも、「真珠」においては養殖の成功で広く用いられるようになった今と、パウロの時代とでは全く価値が異なります。
 心に留めるべきは、自分を美しく着飾り、それを誇ろうとする誘惑が人にはあるということです。しかも、それは私たちの関心を、神様が願っておられる生き方から引き離してしまうことになります。私たちは、良い行いによって着飾ることの美しさや魅力を、主に教えていただきましょう。


3.よく従う心をもって静かに学びなさい(11ー14節)

 続いて、女性たちは「学びなさい」と教えられています。二度も「静かに」と言われていることから、元気なおしゃべりが要らぬ会話を生み、学ぶ機会を妨げていたのではないでしょうか。また、男性を支配したいと望む女性たちが多かったことが考えられます。
 女性が教会のリーダーになることを禁止していると解釈すべきではありません。どのようなあり方であったとしても福音が宣べ伝えられることを主に感謝するパウロが、女性だからという理由だけで、それを妨げるようなことがあるでしょうか。実際にパウロは、プリスキラやアキラなどの女性たちとは良き同労者でした。しかし、その一方で女性たちが教会で問題を起こしていたことも事実であり、パウロはそのような文脈の中で適切な対応を取ったのでしょう。
 「女性たちは、学びなさい」という勧めの根拠として、エバはアダムより後に造られたという創造の秩序、そして、だまされて過ちを犯した女性の罪が指摘されています。ここで注意したいのは、男性が女性を支配すべきだとか、男性よりも女性の方が、より罪が重いのだとか、そういうことではありません。男女間にある普遍的な真理について教えようとはしていません。パウロが言いたいのは男性との関係性というよりも、「自らを顧みて、学ぶことを大切にするように」ということです。「男を転がす」という言葉もありますが、相手をコントロールしたいという望みがあるならば、私たちはまず「よく従う心をもって静かに学ぶこと」を身に付けたいものです。


4. 慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら(15節)

「慎みをもって、信仰と愛と聖さにとどまるなら、子を産むことによって救われる」とは、どういうことでしょうか。ある説教集では、このように説明されています。『当時、女性たちが体型維持のため、美容目的の妊娠中絶をすることが流行していた。しかし、古代のこと、その中絶の処置が女性たちの生命を奪うことも珍しいことではなかった。それでパウロは15節のように勧めているのである』。聖書中の「救い」と言えば「罪の救い」を考えてしまいがちですが、病気を「治す」「助ける」という意味もあります。そのような意味で理解すると、文脈に矛盾も唐突さもなくなるでしょう。パウロは、女性たちが神のみこころから離れた価値観に関心を寄せて苦しむのではなく、信仰と愛と聖さにとどまっていてほしいと願っているのです。

 「どこででも、きよい手を上げて祈りなさい」「良い行いで自分を飾りなさい」「よく従う心をもって静かに学びなさい」、パウロは男女それぞれに教えていますが、私たちはどの教えもよく受け止めたいと思います。
 そして、そのように信仰と愛と聖さにとどまることによって、主と共に歩むことの幸いをますます経験させていただきましょう。