「重荷をともに負う交わり」

民数記 11:14-17

礼拝メッセージ 2024.1.1 元旦礼拝 牧師:船橋 誠


1,民の間の不平不満

 1節に「民は主に対して、繰り返し激しく不平を言った」と書いています。人々は「繰り返し」、「激しく」不平の思いを神に対してぶちまけました。到着地点の見えない、いつ終わるともしれない道なき道を彼らは歩き続けていました。水も食料もなく、厳しく荒涼とした大地を、宿営と行進を繰り返し、ただ進んで行かなければならないのです。
 エジプトで彼らが食べていた「肉、魚、きゅうり、すいか」はここにはありません。彼らは大声で泣いてこう言いました。「ああ、肉が食べた い。…私たちの喉はからからだ。全く何もなく、ただ、このマナを見る だけだ。」(4~6節)。マナは荒野を放浪する民を守り養うために神が 奇跡をもって用意された食べ物、天からの賜物でした。これは「鍋で 煮てパン菓子」となり、その味は「油で揚げた菓子のような味であった」ようです(8節)。
 いくらマナが美味しいものであっても、毎食そればかりで彼らはそれに飽きてしまっていたのでしょう。その気持ちはわからないわけではないですが、何と言っても、奴隷の状態から救い出され、今、彼らがいるのは荒野なのですから、やはり仕方のないことだと思います。エジプトの奴隷生活を懐かしんで「昔は良かった」とつぶやくことは、せっかく神の恵みによって救い出されたはずなのに、それを忘れたかのように、元の生活に戻ることを願うのは、主への反抗にほかならず、非常に愚かなことです。
 4節には「激しい欲望にかられ」とありますから(34節)、それはやはり度を越したものだったのでしょう。「激しい欲望にかられ」た最初の人たちは、「彼らのうちに混じって来ていた人たち」との表現がありますから、その人々を通して、この不平をつぶやく思いは伝染していったようです。不平の気持ちや思いは恐ろしいほどのスピードで人々の間に伝染します。それはあたかもウイルス感染のように広がるのです(参照;Ⅱテモテ2:17)。「ああ、肉が食べたい。エジプトは良かった」 (18節)というつぶやきは、民の間で感染爆発を起こしたのです。不平不満が持つ影響力は、信仰で結ばれている神の共同体を破壊してしまうほどのものです。この箇所は、この不平不満でいっぱいの世界で、私たちがどう生きればよいのかを教えてくれます。それは第一に、モーセの祈りから学ぶことです。第二に、神からのことばを聞いて学ぶことです。


2,不平不満でいっぱいの世界でモーセのように祈ろう

 モーセはこのような状況下、民が口々に不平を鳴らして神に反抗し、神は民に対する御怒りを燃やして彼らを罰していかれることの中で、どう感じていたのでしょう。一言で言えば、モーセは限界に達していました。15節には、「私をこのように扱われるのなら、お願いです。どうか私を殺してください」と言っています。すべての人が倒れようともこの人だけは絶対に大丈夫、決して動じないと思われていた神の人モ ーセが、なんと絶望の淵に立っていて「神よ、もう私を殺してください。」と、悲痛な思いを語り、神に必死の懇願をしているのです。旧約聖書 で自ら死ぬことを願った人は、他にヨブ、エリヤ、ヨナがいます(ヨブ3:11、Ⅰ列王19:4、ヨナ4:3)。新約聖書でもパウロはこう言いました。「だれかが弱くて、私が弱くない、ということがあるでしょうか。」(Ⅱコリント11:29 新改訳第三版)。人はだれでも疲れることがあるし、弱って倒れてしまうこともあるような限界をもった存在です。
 しかし、ここで私たちが知るべき大切な点は、モーセはそれを神に 告白したということ、そして必死に神に祈って挑みかかったということ です。11節を見ると、モーセはこう主に向かって祈っています。「なぜ、あなたはしもべを苦しめられるのですか。なぜ、私はあなたのご好意 を受けられないのですか。なぜ、この民全体の重荷を私に負わされる のですか」。「なぜ」、「なぜ」、「なぜ」と畳み掛けるように神に訴えるモ ーセのことばは、言わば神を動かし、この絶望的な事態を、この困難 極まりない局面を打開に導いたのです。ある人がここを解説してこう 言っています。「私たちの祈りの問題は、私たちが神の御前でどれほ どまで大胆に振る舞うことができるか、に尽きる」と。多くの人は困難な 状況で神に不平を言い、不信仰と疑いを持って神から離れようとしま すが、モーセはそうではなく、神に向かって迫り、約束のみことばを握 って挑みかかりました。神のご介入を強要するように祈ったのです。


3,不平不満でいっぱいの世界で神のことばを聞こう

 このようなモーセの祈りに対して、神が与えられたことは、重荷をともに負う交わりを創出することでした。16節「イスラエルの長老たちのうちから、民の長老で、あなたが民のつかさと認める者七十人をわたしのために集めよ。そして彼らを会見の天幕に連れて来て、そこであなたのそばに立たせよ。わたしは…、あなたの上にある霊から一部を取って彼らの上に置く。それで彼らも民の重荷をあなたとともに負い、あなたがたった一人で負うことはなくなる。」と主はモーセに語られ、そのとおりにされました。
 ここで神から告げられたことばの意味することは、一つには、モーセが決して一人ではない、孤独ではないということを思い起こさせるためであったと思います。もう一つは、立てられた長老たちに神からの「霊」が直接与えられたということです。新約聖書的には、「御霊の賜物」が注がれたということでしょう。神は神の民に、霊の賜物を注がれます。注目すべきは、「モーセの上にある霊を取って」ということです。それはモーセ的なものでした。モーセの分身が七十人誕生したということではないと思いますが、この選ばれた長老たちは、モーセと同じ心、同じ信仰を持って働けるように神が立てられたということです。
 私たちは人生の苦しみや責任をいろいろなかたちで背負っていますが、神が仰るように「あなたが…認める者」つまり、信頼できる人にその重荷を、また働きを分かち合うことができるのです。祈ってもらうことはできるはずです。一人で抱え込むのではなく、互いに重荷を負い合うことで、互いに愛し合いなさいという、キリストの律法を全うすることになるのです(ガラテヤ6:2 第三版)。「あなたは一人ではないのだ、一人で抱え込的な!」と主は言われます。
 内村鑑三の『一日一生』に次のようなことが書いています。主は「わたしは在りて在る者だ」と聖書に書いていますが、彼はそれを「わたしは在らんとして在らんとする者」、つまり「わたしはなるという者になる」と捉えています。英語では「I AM THAT I AM.」ではなく、「I WILL BE THAT I WILL BE.」です。そしてこう続けます。今日の「主」は明日の「主」ではなく、今日という日よりも明日のほうがもっと良く、今年よりも新しい年のほうがより大きく貴いものになると。私たちは一年の最初にどんなことがあるのか、変化を恐れてしまいます。しかし、内村鑑三が言うように、神は良い意味において、常に新しくなられる未来の神であるということです。その神が新しい一年も、より大きな恵みを用意して先導してくれるのです。