「力と聖霊と強い確信によって」

テサロニケへの手紙 第一 1:1-10

礼拝メッセージ 2024.1.17 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,感謝しています−教会が信仰・愛・希望に生きているから

 この手紙の1章の中心のことばは、2節の「私たちは感謝しています」です。『ワード聖書注解』でF.F.ブルース師も、この箇所の表題を「感謝の祈り」(Thanksgiving)としています。パウロが第二回伝道旅行でマケドニア地方のテサロニケを訪れたとき、そこに信じる人々の群れが生まれました(使徒17:1〜9)。しかし危険が迫り、パウロはその地を離れたのですが、テサロニケのことがとても気にかかり、テモテを派遣しました。それからしばらくしてコリントにいたパウロのもとに、テモテが来て報告しました。それが非常に喜ばしい内容だったので、パウロはテサロニケの教会に手紙を書き送りました。それがこの手紙です。
 テサロニケの教会のことをテモテから聞いたパウロは、感謝の祈りを主に捧げました。おそらくパウロの現存する最初期に属すると見られる本書には、初代教会の新鮮で純粋な信仰の様子が伺え、また、執筆者であるパウロの若く溌剌とした姿が垣間見られるように思います。パウロはこのとき喜んでいましたし、感謝をしていました。この書を読みながら、ふと思ったことは、パウロは私たちの教会を見て、感謝を捧げてくれるだろうか、ということでした。
 あるいは、こうも思いました。感謝の祈りを捧げているパウロたちの姿を想像しつつ、自分は日々感謝して歩めているのか、ということが問いかけられているように感じました。新しい一年が始まりましたが、大きな災害や事故のニュースを聞いて、被災地の方々のことが気にかかり、祈りを捧げることはもちろんですが、この年はいったいこれからどんなことになるのかと思った方も多いと思います。感謝よりも心配や不安、あるいは不満の思いが先立ち、信仰による平安が揺らいでいる方がおられるかもしれません。でも、聖書を開いて、パウロの声を聞いてください。パウロは言います。「私は感謝しています」と。
 その感謝の理由の第一は、「信仰」と「愛」と「希望」をテサロニケの教会の人々の中に見たからだと書いています。パウロが書簡中に時々示す「トリオ」です。ちなみに、パウロは三連句をよく使い、5章には、「喜び」、「祈り」、「感謝」が述べられます(5:16〜18)。「信仰」と「愛」と「希望」のほうは、コリント人への手紙第一13章が有名です。「こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これらの三つです。」(Ⅰコリント13:13)。信仰、愛、希望は、直接目に見えず、ともすると単なる理想やことばだけのことと考えやすいのですが、パウロは、ここでこの三つがそんなものでは決してないことを表現しています。「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を、絶えず思い起こしているからです」(3節)。
 「信仰」には「働き」が生まれ、「愛」には「労苦」が、「希望」には「忍耐」が生じると書いています。働きのない信仰はないし、労苦を伴わない愛もなく、忍耐を生まない希望は価値がありません。信仰と愛と希望には「働き」、「労苦」、「忍耐」という目に見える行動がその存在と意義を示してくれます。ご自身のことを考えてみてください。あなたは今、「苦労して疲れているでしょうか」、「辛抱の毎日でしょうか」、もしあなたが信仰を抱いてそうしているならば、そこに確かな信仰があるからではないでしょうか。それは神の愛に生きているからではないでしょうか。我慢の日々を過ごしているのは主に希望を抱いているからではないでしょうか。もし、そうであるなら、現実にうまく行っているように見えるかどうかには関係なく、それが信仰、愛、希望ということでしょう。もしパウロが私たちを見たとしたら、嘆き悲しむでしょうか、それとも感謝の祈りをしてくれるでしょうか。


2,感謝しています−テサロニケで福音は出来事となったから

 第二に、パウロたちが感謝していることは、福音が確かに届いたからです。厳密に言うと、5節の「届いた」と訳されているギリシア語は「ギノマイ」ということばで、「生じる」、「起こる」、「〜になる」という意味です。この語は、5節に2回、そして6節と7節にもあります。ある聖書の訳では、この5節のところを「出来事となった」と訳しています。これはとても意味深い表現です。「福音が出来事となる」。福音がひとりの人の人生を変えます。福音が多くの人々に影響を与え、信仰と愛と希望を生み出し、テサロニケの地域を変えていく。この書は、そういう出来事が実際に生じつつあった、ということのリポートであったとも読めます。
 福音は「ことば」です。ことばとして表現されるものです。それは当時であれば、羊皮紙、パピルスに書けるものであり、現代で言えばPCやスマホの画面上に表現することができるものです。けれども、それが単なる「ことばでなく」、「力と聖霊と強い確信を伴って」、大きな変化をもたらすことになるのです。それは神のみわざであり、それは奇跡といって良いでしょう。福音が起こした神の出来事、それは信仰者が百人いれば、百人の福音の出来事であり、千人いれば、千人の上に奇跡が起こったということです。パウロはこれまでその出来事を目の当たりにして来ましたし、テモテの報告を聞いて、「私たちの福音」と呼ぶ「神のみことば」がパウロたちから出て、テサロニケの人々に臨み、今やその福音がテサロニケの人々から次にマケドニア、アカイアの人々にまで広がり、信仰の出来事を生じさせているのです。このことにパウロは心に感動を覚え、喜びと感謝を神の御前に捧げていたのです。福音の力を私たちは過小評価してはいけません。福音は必ず出来事となるのです(参照;イザヤ55:10〜11)。


3,感謝しています−教会の人たちが主に倣う者となったから

 第三に、パウロが感謝しているのは、テサロニケ教会の一人ひとりが、主イエスに倣う者となったからです。今日の信仰者がこの手紙を読んで、一番驚くことは、このテサロニケ教会がこの手紙を受け取ったとき、教会が建てられてそんなに長い月日が経過していなかったという事実です。テサロニケの人々は、信仰生活において、これができている、またはできていない、という条件や状態で言えば、彼らはまだまだ未熟に見えることが多々あったに違いありません。けれどもここにあるように、その思いにおいては、とにかくイエス・キリストという一点に集中していました。キリストという中心点にベクトルが向いていたのです。荒削りの信仰であったのかもしれませんが、彼らは確かに「偶像から…生けるまことの神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになった」のです(9〜10節)。たいへん興味深いのは、そういう彼らの変化を見た人々が噂したということです。パウロら宣教師たちがどのようにして彼らに受け入れてもらい、そうして彼らがどのように変わっていったのかということをです。J.ストット師は、こういう「聖なるゴシップ」こそが、福音を広げるのに効力があったと説明しています。しかし、その「聖なるゴシップ」を生んだのは、ひたむきな彼らの「キリストへの集中」ということでした。そして、この「キリストへの集中」が信仰と希望と愛を育み、いつも喜び、絶えず祈り、すべてを感謝する生き方を可能にするのです。