テサロニケへの手紙 第一 2:1-12
礼拝メッセージ 2024.1.14 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,弁明し反論するパウロ
2章から3章は、パウロの心がよく現れている箇所であると言われています。それは、パウロの教会を開拓した伝道者としての思いであり、宣教者のスピリットです。しかし、そういうふうに言うと、大きな岩山のように、何があってもびくともしないようなパウロの霊的な力を想像されるかもしれません。しかし、ここをよく見ていくと、教会の人々に分かってもらおうと必死になって弁明し、敵のことばに反論しているパウロの姿があることに気づきます。2章1節から12節では、「なぜなら」(ギリシア語;ガル)という理由を伝える語が繰り返し使われています(1、3、5、9節)。それに繋がることばとして、「むしろ」(ギリシア語;アラ)という語も多用されています(2、4、7、8節)。この「なぜなら」の箇所を抜き出して見ていくと、ここでパウロが何を言おうとしていたのかがわかります。
第一番目は、1節「(なぜなら;ガル)兄弟たち。あなたがた自身が知っている…無駄になりませんでした。」、2節「それどころか(アラ)、ご存じのように、…激しい苦闘のうちにも神の福音をあなたがたに語りました」。 第二番目は、3節「(なぜなら;ガル)私たちの勧めは、誤りから出ているのでも、不純な心から出ているものでもなく、…」、4節「むしろ(アラ)私たちは、神に認められて福音を委ねられた者…」。 第三番目は、5節「(なぜなら;ガル)あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。…」、7節「(むしろ;アラ)、あなたがたの間では幼子になりました。…母親のように(なりました)」。 第四番目は、9節「(なぜなら;ガル)兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように…」。
2,宣教が無駄という攻撃に対しての反論(1〜2節)
このように繰り返し「なぜなら」と理由を説明しています。その内容とは、第一に、敵が「パウロたちの宣教の働きが無駄だった」と言ったことへの反論です。敵の攻撃は、まず宣教活動を否定することから始まったようです。敵たちはパウロに「おまえたちのしていることには何の意味があるのか。無駄なことではないか」と嘲ったし、そのことばはテサロニケの信徒たちにも届いていました。だからパウロは言うのです。「われわれの宣教の働きは決して無駄ではなく、『激しい苦闘のうちにも神の福音を…語り』、それで神の福音がテサロニケの人たちに届いたのです!」と。このように宣教の働きや伝道は、「そんなことをして一体何になるのだ」という悪魔の声と常に闘わねばならないのです。
3,福音は真理ではないとの攻撃に対しての反論(3〜4節)
二番目のパウロのことばです。「なぜなら、私たちの勧めは、誤りから出ているのでも、不純な心から出ているものでもない」とパウロは書いていますが、これは敵が、福音と福音を宣べ伝える者を否定したことに対するものです。敵はこう言いふらしていたのでしょう。「パウロたちが語っている福音は、『誤りから出ているし、彼らの不純な心から出ている』ものだ」と。福音のことを「誤り」や「間違いがあるもの」と言う者を意識して、パウロはここで「神の福音」と何度も書きました(2、8、9節)。福音とは、神がお与えになった、神に起源を持つ、神のご計画と権威に基づくものであることを、彼は宣言しているのです。パウロはそれをコリント第一15章で、「最も大切なこと」と言い、こう続けました。「キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」(同15:3〜4)。
その福音の良き知らせが真正なものであることを証明するのは、それを宣べ伝えているパウロたち自身が「神に認められて福音を委ねられて」いるということです(4節)。この「認められている」は、ギリシア語で「ドキマゾ−」です。これは、試験を受けて、合格と認められている、証明済みのものだという意味です。主を信じる者たちは、いつの時代にも、繰り返しこの世と悪霊から、それは「誤り、不純、だましごと」だと告げられるでしょう。けれども、パウロたちが確信したとおり、この福音を「神の福音」として信じ、恐れず宣べ伝えていきましょう。
4,宣教が悪い動機からされている攻撃への反論(5〜8節)
第三番目は、宣教の動機、その目的に対する攻撃的な批判です。5節「なぜなら、あなたがたが知っているとおり、私たちは今まで、へつらいのことばを用いたり、貪りの口実を設けたりしたことはありません。…」。「へつらいのことば」とか、「貪りの口実」とあるように、敵はパウロたちが何のために宣教の働きをしているのかを突いてきました。「口ではうまいことを言うが、パウロのしていることの真の目的は、彼らが自分たちの栄誉を獲得するためではないのか。テサロニケの人たちを自分たちの心や欲望を満たすための道具にするためではないのか」という酷い悪口が投げかけられていたのでしょう。
そこでパウロが弁明のことばとして使った比喩が、「幼子」と「母親」です。パウロが説明していることは、自分たち宣教者は、「使徒の権威」を振りかざすことはせず、むしろへりくだり、小さな子どものようにしていたこと、そして何よりも、子どもを育てる愛情深い母親のようにふるまったと記しています。親が子どものために「自分のいのちまで」与えて良いと思うほどに、テサロニケの人々に対するパウロの愛は深いものでした。こうして家族関係の比喩を使うことで、栄誉を求めることや、貪ることはあり得ないことを示したのです。私たちの宣教活動においても、常に誤った動機に動かされないように注意しなくてはならないことも教えられるところです。
5,信仰は重荷となるという攻撃に対しての反論(9〜12節)
四番目ですが、敵はこう言ったのでしょう。「パウロはあなたがたを支配して、たいへんな重荷や負担を負わせようとしている」と。だから、パウロはこう書いています。「なぜなら、兄弟たち。あなたがたは私たちの労苦と辛苦を覚えているでしょう。私たちは、あなたがたのだれにも負担をかけないように、夜も昼も働きながら、神の福音をあなたがたに宣べ伝えました。また、信者であるあなたがたに対して、私たちが敬虔に、正しく、また責められるところがないようにふるまった…」と。福音宣教のわざは、人々に真の自由と平和をもたらすものであるはずですが、信仰を持つことが生活を不自由にし、束縛するものであるかのように、敵は惑わしの声を吹聴してくるのです。そこで、パウロは今度は「父親」の比喩を使い、テサロニケの教会の人々に威厳をもって諭しています。「私たちは自分の子どもに向かう父親のように、あなたがた一人ひとりに、ご自分の御国と栄光にあずかるようにと召してくださる神にふさわしく歩むように」と。これが人を真に生かす自由と喜びの道です。