テモテへの手紙 第一 3:1-7
礼拝メッセージ 2024.2.25 日曜礼拝 牧師:太田真実子
1.立派な働きを求めること(1節)
手紙の差出人パウロから「監督」の職について語られている箇所です。この手紙の受取人であるテモテは、エペソの教会で牧会の働きを任されていたようですが、その教会の中で「監督」の職務に関する問題が生じていたことが伝わってきます。
《もしだれかが監督の職に就きたいと思うなら、それは立派な働きを求めることである(1節)》。引用箇所は不明(旧約聖書の引用ではない)ですが、「按手礼の時に使われた言葉なのではないか」とも言われています。監督という職務については、当時は周知の事実であったことから、明確に説明されていません。「監督(ギリシャ語)」は「取り締まる者」「管理する者」という意味もあり、いわゆる現在の教会役員のような人たちのことだったようです。教会を管理し、建て上げていく大切な働きのメンバーだからこそ、神の愛に基づいた生き方が求められます。
パウロがこの言葉(1節)を引用した理由は、「監督の職務が尊敬されていなかった」「監督のなり手が足りなかった」というよりも、むしろ「多くの人が監督職を望んでいた」あるいは「現職の監督者に問題が生じていた」のだと考えられます。教会の組織・制度が整えられていく過程においては、教会の職務に就く者の資格も重要な問題になってきます。そこでパウロは、立派な働きを求めることは良いことであると同時に、神の教会に仕える者としての責任を教えています。
2.監督職の者が心得ておくべきこと(2ー7節)
監督職の資格があげられています。第一に、あらゆる点において非難されるところがないこと。第二に、一人の妻の夫であること。これは結婚を条件としているのではありません。結婚関係以外の性的不品行について指摘されています。第三に、欲に流されやすい人ではなく、自分を制することのできる人であること。第四に慎み深く、第五に礼儀正しい人であること。第六に、よくもてなす人であること。この言葉の背景には、当時の教会の事情があったと思われます。使徒や宣教師たちが巡回することによって福音宣教が進められていたので、それに伴い、そのような人々を迎え入れてもてなすことも非常に重要な働きでした。
第七には、教える能力があること。手紙冒頭の1章4節でも「果てしない作り話と系図に心を寄せたりしないように」と注意されているように、イエス・キリストを正しく理解する信仰と、それを解説して勧めていく能力が必要とされています。
そして、3節では酒におぼれている人ではないということ、乱暴でなく、柔和で、平和で争いを好まない人であるということ。また金銭を愛する者ではないということが述べられていて、4−5節では、自分自身の家庭を治めることができない人は、神の教会のお世話をすることもできないことが指摘されています
最後の6−7節は、その人自身がより悪い状況にならないよう守るための助言でもあります。
3.神の教会に仕える者として
パウロの勧めを見ると、その基準の高さに「いったい誰が監督の職を全うできるのか」と思われるかもしれません。心に留めたいのは、パウロは以上の条件に見合わない監督を非難したかっただけではないということです。神の教会を建て上げていく者たちだからこそ彼ら自身が整えられる必要があり、そのためにパウロはエペソの教会の兄姉を教え、戒め、励まそうとしています。心を神に向けて、神から与えられた働きのために、一致して一生懸命に励もうとしているわけです。
なかには、監督のような教会のリーダーとしての責任が与えられていないという人もいます。しかし、だからと言って他人事として捉えるのではなく、すべてのキリスト者が神のしもべとして整えられ、福音の働きのために用いられるよう祈っていくべきです。また教会のリーダーを非難するのではなく、彼らのために祈り、励ますべきです。
私たちは、「できないから」と言って目を背けるのではなく、すでに罪によって死んでおり、神様のみこころから離れている自分たちだからこそ、教会の兄姉と共に互いに戒め合い、励まし合って、神様のみこころに近づいていきたいとい思います。そして、そのことを通して、神の教会が健全に建て上げられていくことを祈り求めてまいりましょう。