「神に喜ばれる生活」

テサロニケへの手紙 第一 4:1-12

礼拝メッセージ 2024.3.3 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,すべては神に喜ばれるため

いかに生きるべきか

 パウロの書簡は、多くの場合、手紙の前半で教理的なことを語り、後半で信仰の実践が記されています。このテサロニケ人への手紙第一も同様です。1節でパウロは、「主イエスにあって」と書いています。これは「私パウロが記しているが、私個人の命令ではなく、イエス様からの勧告であり、命令である」という意味です。「勧めます」はパウロがよく使っている表現で、ギリシア語でパラカレオーです。「パラ」とは「傍らに」ということ、そして「カレオー」とは「呼び寄せる」ということで、それらが組み合わさった語です。傍らにいて呼びかけるとは、弁護者あるいは味方としてそばで慰める、そして励ますということです。テサロニケの教会の人たちと距離は離れていても、「私の心はあなたがたのそばにいて、その歩みを見守っているよ、祈っているよ」というパウロの霊的な親心が見えることばです。

神に喜ばれるという動機

 さて、ここで一番最初に勧めていることは「神に喜ばれるためにいかに歩むべきか」ということです。この「神に喜ばれるため」という動機や目的こそが、私たちのすべての歩みの根底にあることです。人ではなく、自分でもなく、この社会の要求でもなく、その一切は神に喜ばれることにある、それを基礎とする生き方というのが、信仰者のあり方なのです。もちろん、他の人々を大切にし、愛することは、当然のことなのですが、その行動原理の突き詰めたところに、もし自分の思いだけでそこに絶対者である神がおられる余地が全くないとすれば、人々からどんなに喜ばれ、称賛されようとも、それは神の御心を離れていることになってしまいます。有限で相対的な人間という存在を基準とすべきではないのです。逆に言えば、どんなに人々から嫌われようとも、反対されようとも、それが「神に喜ばれること」であるなら、必ず実行しなくてはなりません。
 私たちは有限で不確かな人間にではなく、「神に喜ばれるため」という動機によってすべてのことを行う者として召されています。それでは、それは「どのように歩む」(1節)ことなのでしょうか。それが、3節以降の内容です。ここには、すべての人が避けて通れない課題が挙げられています。結婚や性の問題、労働の問題、そして死の問題ということです。最後の「死の問題」については、次回以降見たいと思います。


2,聖なる者となれ

淫らな行いを避けよ

 まず、結婚や性の問題について記されている3節からを見ましょう。パウロはきっぱりと語ります。「神のみこころは、あなたがたが聖なる者となることです」(3節)。パウロはここで専ら、「聖なること」や「聖さ」ということについて、より狭い範囲で取り扱い、性的純潔を問題にしています。この書を執筆していたパウロはおそらくコリントにおり、宛先はテサロニケでしたが、当時、両都市は不道徳な町として知られていました。続く「あなたがたが淫らな行いを避け、…」とあるのは、そういうことです。この「淫らな行い」とは、結婚関係以外で男女が性的関係を結ぶことを言っています。新約学者F.F.ブルースは当時の男性たちが交友関係において「愛人」(ヘタイラ)を持ったり、女奴隷を「妾」(パラケー)にしたり、一時的快楽のために「娼婦」(ポルネ)と関係を持つことがあったと言います。4節の「自分のからだ」とは直訳で「自分の器」であり、「器」を「妻」であると解釈する翻訳も多数あります。そうすると、4節の文章は結婚生活を尊く保つように、既婚者に対して警告していることになります。ドイツの新約学者エプケは、この節の註解で「パウロは穏やかな方法で、結婚生活は、夫が絶えず新たに妻に求愛することでなければならない、と暗示しているのである。」(『NTD新約聖書註解8』)と書いています。

創造主である神を知ること

 性は創造主である神からの良き贈り物ですが、他の良き贈り物と同様に、目的があって与えられています。自分の満足だけを目的とするなら、当時は異教の神殿が性的なことを売り物とするような世界であり、そうした中で暮らしていた彼らには大きな誘惑となっていたようです。しかし、これは今の時代においても、かたちは違うにしろ、同じような誘惑があちこちに転がっています。アシジのフランシスコは、自分のからだのことを「ロバの兄弟」と呼んでいたそうです。ロバはそれを飼っている人にとっては自分自身の大切な一部のような存在ですが、しばしばそれは自分の意思で動こうとします。乗り手はロバを手なづけ、従わせる必要があったのです。神は私たちがご自身の子どもとして、神の御姿を真に反映するようになることを望んでおられます。6節にあるように、正しい審判者であられる「主」の前に立つことになるのを決して忘れてはならないのです。5節のことばから類推できるように、すべての鍵は「神を知ること」にあります。異邦人(異教徒)が知らない神は、実に人間を男女に創造された神であり(創世記1:27)、聖なる霊を人間の内側に注ぎお与えになって(8節)、人間を聖なる神殿となさる神であるということです(Ⅰコリント6:19〜20)。


3,兄弟愛に生きよ

 9節から12節には、兄弟愛に生きることが述べられ、それが自分の手で働くことへの勧めに結びつけられています。この「兄弟愛」ということばは、ギリシア語で「フィラデルフィア」で、アメリカの都市名で知られています。その意味は実際の兄弟のように、肉親の如くに振る舞うということではありません。これは神を父とするキリスト者同士に与えられた全く新しい人間関係であり、主を基盤とした交わりです。それは利己心や欲望や好き嫌いで結ばれるものではなく、互いに真理を喜び、礼儀正しく、悪に打ち勝つ力を秘めた偽りのない愛、互いへの尊重と尊敬であり、助け合える素晴らしい関係です。11節と12節を見ると、そのような兄弟愛を阻むような自堕落な生活をしている人たちがいたのでしょう。しかし、使徒ははっきりと人々を戒めています。「私たちが命じたように、落ち着いた生活をし、自分の仕事に励み、自分の手で働くことを名誉としなさい。」(11節)。この「落ち着いた生活」は欽定訳聖書では「study to quiet」と訳され、キリスト者の生活訓として多くの信仰者の心に刻まれて、ヨーロッパの社会の中で覚えられてきたと言います。みことばが示すように、個人としてであれ、全世界的であれ、「終わり」を見据えて生きることは大事なことです。ジョン・ウェスレーは、ある人から「あなたがもし明晩十二時に死ぬとしたら、どんな用意をされますか」と尋ねられて、こう答えました。「やはり今ある予定通り過ごすだけです。明朝、グラウセスターで説教し、それからチウスクバーグに馬で行き、午後に説教し、夜は信者と会い、マルチン君の家に泊めてもらい、その家族と話した後、神に祈りを捧げて十時に寝床に入り、翌朝は栄光の国で目覚めるだけです」と。