ヨハネの福音書 10:7-18
礼拝メッセージ 2024.3.31 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,イエス・キリストとはどんなお方ですか
ヨハネの福音書には、主イエスが言われた、英語で言うところの「アイ・アム・ステートメント」(I AM statements)というものが複数出て来ます。「アイ・アム・ステートメント」とは、「わたしは、〜です。」(I AM〜)というイエスさまの自己表明のことです。
イエスは言われました。「わたしはいのちのパンです」(6:35)、「わたしは世の光です」(8:12)、「わたしは羊の門です」(10:7)、「わたしは良い牧者です」(10:11)、「わたしはよみがえりです、いのちです」(11:25)、「わたしは道であり、真理であり、いのちです」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木です」(15:1)と。これらは全部で七つあり、イエスがご自分のことを比喩的に表現されたことばです。どれもユニークなものばかりで、主はどういうことを象徴しているのかと考えてしまいます。確かに、神さまやイエスさまは、とてつもなく大きい存在なので、どのように理解し表現したら良いのか、わからないため、このイエスご自身による表明は大いに参考になります。今日の聖書箇所10章7節から18節には、そのうちの二つである、「わたしは羊の門です」と、「わたしは良い牧者です」が出て来ます。キリストと呼ばれるイエスがいったいどのような意味で、そう言われたのかを今日は見ていきたいと思います。
2,イエス・キリストは「羊たちの門」です
7節「羊たちの門」や、9節「門」ということばは、英訳聖書では、「ドア」(扉、戸)と訳されているものと、「ゲート」(門)と訳されているものに分かれています。ギリシア語のほうは「スーラ」ということばで、ギリシア語の辞書には、一番目の意味が「戸口」や「扉」(ドア)で、二番目の意味が「門」や「玄関」となっています。これは聖書辞典によると、羊たちが入っている部屋あるいは檻に付いている出入口のことを指しているようです(参照;1〜5節)。
イエスがこの比喩によって伝えたいと願われた意味は9節に書かれています。「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます」。人が真に救われ、いのちを豊かに持つことのできる門、入口はイエス・キリストであるという真理です。言い換えると、他の門、扉では決して救いに至ることはないということです。これはイエスが別のたとえでも言われていたことでした。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(14:6)。関連する表現としては、マタイの福音書にこうあります。「狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広く、そこから入って行く者が多いのです。いのちに至る門はなんと狭く、その道もなんと細いことでしょう。そして、それを見出す者はわずかです。」(マタイ7:13〜14)。
一般的な日本人の感覚すると、こうしたことばは、たいへん排他的で独善的に思われるかもしれません。これは一休さんが言ったと伝えられる「分け登る麓の道は多けれど、同じ高嶺の月を見るかな」とは全く逆のあり方です。使徒ペテロは次のように言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)。「この方以外には、だれによっても救いはありません」ということばのとおり、救いの真理というものは、正しいか、間違いであるのか、答えはただ一つしかありません。
3,イエス・キリストは「良い牧者」です
「牧者」とは、「羊飼い」と表現しても良いことばです。イエスがご自身を「牧者・羊飼い」と表現されているのは、旧約聖書の有名な詩篇23篇を基礎にして仰られたことだと思います。そこにはこう書いています。「主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。」(詩篇23:1〜2)。この「主」とは神さまのことです。イスラエルの民を、守り、養い、導いてこられた方として、神を羊飼いにたとえて、歌われています。
家畜の羊はたいへん弱い動物で、羊飼いによって守られ、助けを受けないと、元気に生きていけない、たいへん世話のかかる生き物だそうです。彼らは牧草や飲み水を自分で見つけ出すことはできませんし、もし群れから離れてしまうなら、道に迷って崖から落ちたり、野獣の餌食になる心配がありました。人間というものは、そんな羊のようなもので、導き手が必要なものであることを聖書は語り、イエスは度々そのことを教えられました(ルカ15:3〜7、マタイ18:12〜14)。人は罪を犯し、神の愛と保護から迷い出た「ロスト・シープ」(失われた羊)であると言われたのです。
それでは、「良い牧者」とはどういう者であるのかと言うと、イエスはここで驚くようなことを言われました。それは「(羊のために)自分のいのちを捨てる」者であると。この「自分のいのちを捨てる」は、実に三回も(15、17、18節)言われ、強調されています。常識的に考えると、いくら「良い羊飼い」だとしても、身の危険が生じたら、いのちの安全は何よりも優先すべきことですから、やむを得ずその場から逃げることになったとしても、それは許されるはずです。しかし過去に羊たちを守ろうとした結果として、羊飼いがいのちを失ってしまうことが実際にあったのかもしれませんが、それはあくまで悲惨な事故であり、悲しむべき出来事のはずです。
私はイエスがご自分を「良い牧者」であると言われ、「良い牧者」であるとは「羊のためにいのちを捨てる」者であると言われたことは、もはや比喩やたとえであることを超えていると思います。これは「比喩を超えた比喩」であり、もはや同様なものが何も存在しない、この世にあるどんな人や事物であっても全く表わすことのできない、キリストの唯一性、独自性というものが明らかにされていることばなのです。「人が自分の友のためにいのちを捨てること、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(15:13)とイエスは言われましたが、「愛」という知性や常識を明らかに飛び越えてしまうことによって働かれるお方として、イエス・キリストはこの世界に来られたのです。
さらに見ていくと、主イエスはこれからすぐに起こることになる十字架と復活の出来事をこう言われています。「だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けています。」(18節)。イエスという方は、道徳的に正しい人として生き、信仰の教えを説き、良い模範を示したが、それが却って嫉妬と恨みを買うことになって、酷い非業の死を遂げた偉大な宗教家なのでは断じてありません。キリストは、羊のような弱い存在の私たち人間を救うために、ご自分の意思で自ら十字架でいのちを捨てて死なれ、三日目に復活して、再びいのちを得られた、比類なきお方です。こういうお方だからこそ、あなたや私を救うことができるのです。