「主とともに生きるため」

テサロニケ人への手紙 第一 5:1-11

礼拝メッセージ 2024.4.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,聖書の結びのことばは主の来臨

 現代の私たちはこれまでの長い歴史の中でかつてなかったほど、世界の終わりというものを現実感をもってその危機を覚えるようになっています。地球規模の環境破壊は凄まじいスピードで進行を続けていますし、世界を滅ぼし尽くすだけの核ミサイルも存在しています。しかし、聖書は現代の人々が思い描くような悲惨で世界が幕を閉じるとは語っていません。むしろ世の終わりは、キリストが再び来られるという裁きと希望を明確に伝えているのです。今日の箇所の少し前にこう書いていました。「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます。そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです。」(4:16〜17)。
 聖書全体の結びの文章はヨハネの黙示録22章20節と21節です。「これらのことを証しする方が言われる。『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みが、すべての者とともにありますように。」 このうち21節は祝祷なので事実上の最後は「『しかり、わたしはすぐに来る。』アーメン。主イエスよ、来てください。」です。主がすぐに来てくださることを宣言され、それに呼応して「主よ、来てください」と祈りのことばで聖書全巻は閉じられています。このことからわかるように、聖書自体が示すこの世界の終着点、結論は、主の来臨にほかなりません。パウロが記す通り、「マラナ・タ」(主よ、来てくださいⅠコリント16:22)こそが信仰の究極です。


2,主の来臨は突然起こる

 さて、その主の来臨はどのように起こるものかを示すのが4章後半に続く5章前半の記述です。「兄弟たち。その時と時期について、あなたがたに書き送る必要はありません。」(5:1)。この来臨の「時」(ギリシア語:クロノス)と「時期」(カイロス)について「書き送る必要がない」とは、その「時」を彼らがいつであるのかを知っているのではなく、そういうことは知ることができないし、知る必要がないということを、彼らがよく心得ているということです(参考;マタイ24:36)。
 「時」や「時期」を知るよりも、それが確実に来ることであることを知って、備えて生きることのほうが大切だとパウロは彼らに教えていたし、そして手紙でもそれをここに確認しています。それで主がどのように来られるのかということを二つのたとえで記しています。一つは盗人のたとえ、もう一つは妊婦のたとえです。どちらのたとえも突然起こることが共通しています。盗人はいつその家に押し入るのかを事前に知らせたりはしませんし、妊婦に起こる陣痛も突然起こります。ただ、双方には多少の違いがあります。それは空き巣は突然で予期せぬものでありますが、陣痛は突然ですが予期できぬものではありません。しかし妊婦にとっての陣痛は突然で予期はできるものの、決して逃れることができないものです。
 「主の日」という主の来臨がさばきであるなら、その破滅は突然で、予期できず、避けることができないというのです。しかしそれだけであるなら、それはただ恐ろしい警告だけで、不安と絶望しかありません。けれども4節以降でパウロはこれは主を信じる者たちにとっては、そうではないと説明します。光と闇、昼と夜、目覚めていることと眠ること、酒に酔う者としらふの者という対比で教えています。「しかし、兄弟たち。あなたがたは暗闇の中にいないので、その日が盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもなのです。私たちは夜の者、闇の者ではありません」(4〜5節)。


3,主の来臨は救いとなる

 4節から8節までのパウロの説明をよく理解するために新約学者J・ストットもN.T.ライトも同じ表現を用いて説明しています。それは「古い時代」に属するか、「新しい時代」に属するかというものです。この「時代」というのは、「世界」と言い換えても良いかもしれません。「新しい時代」は主イエスによって幕が開けられました。「古い時代」は夜であり、暗闇です。これらは新約聖書で示唆されていることです。「光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)。「あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方」(Ⅰペテロ2:9)。「あなたがたは以前は闇でしたが、今は、主にあって光となりました」(エペソ5:8)。ヘブル人への手紙ではそれを「来たるべき世(の力)」(ヘブル2:5、6:5)と表現します。主を信じていない人々は古い時代に属し、古い時代はやがて滅びます。そして新しい時代はいつか完成し、そこに属する人々は最終的に贖われます。
 この書で強く命じられていることは「新しい時代」である光の中にいる者たちは、「目を覚ましていること」です。これは霊的に目覚めているという信仰の姿勢のことです。8節で「神の武具」の比喩で表現されています。「私たちは昼の者なので、信仰と愛の胸当てを着け、救いの望みというかぶとをかぶり、身を慎んでいましょう」。コンスタブルによると、当時よく知られたローマ軍の装備では、胸当ては兵士の首から腰までを覆うもので、生命維持に必要な体の部位をほとんど防護していたそうです。もちろん、頭もかぶとで守られていました。「信仰」、「愛」、「希望」を身につけることが信仰者である私たちの安全を保証するのです。


4,主の来臨を待つことは主とともに兄弟とともに生きること

 次に、主の来臨を待つ者として生きる歩みは、実際にどのようなあり方になるかといえば、それは「主とともに生きる」(10節)こと、そして兄弟たちとともに生きること(11節)であるとパウロはまとめています。「ハイデルベルク信仰問答」にはこう書いています。「生ける者と死ねる者を裁くためのキリストの再臨は、あなたにどのような慰めを与えますか。― それは、かつて私のために神の裁きに対して御自身を捧げ、私からすべての呪詛を取り除き給うたあの裁き主が、天から来たり給うのを、私があらゆる苦難と迫害の中にあっても、首を挙げて待ち望む、ということです。」(『キリスト教の教理』新教出版社)。私たちを愛して、私たちのために死んでくださったキリストが、裁きをなさいますが、同時にそれは私たちを迎えに来てくださるということです。そうして、ずっと、いつまでも私たちは主とともに生きることになるのです。
 「主とともに」に続き、もう一つのことが11節に書いています。それは「兄弟たちとともに」ということです。「あなたがたは、…互いに励まし合い、互いに高め合いなさい」。この手紙には「兄弟たち」という呼びかけが十四回あります。以前に工事中のたとえで申し上げたように、私たちはそういう「真の兄弟たち」(ブレザレン)となる過程にあるのだと考えたいと思います。「主とともに」歩み、「兄弟たちとともに」日々を歩む。それが、ともに一つの祈りである「主よ、来てください」と願って、皆で首(こうべ)を挙げて主の来臨を待ち望む、それが私たち主にある教会の終末を前にした信仰の姿です。