テサロニケ人への手紙 第二 2:1-12
礼拝メッセージ 2024.4.28 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,「だまされてはいけません」、「心を騒がせてはいけません」
この箇所でパウロが第一に伝えていることは、「だれにもだまされてはいけません」(3節)ということです。「すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください」(2節)と告げています。この「落ち着きを失う」と訳されたことばの意味は「理性的な判断力から離れて動揺するな」ということです。当時も現代も「世の終わり」のことは衝撃力があり、ある人は平常心を失って狼狽し、またある人は熱狂して我を忘れてしまうこともあるからです。2節に記されているように、「主の日がすでに来た」と、何らかの霊による預言とか、使徒たちの偽の手紙など、いろいろな仕方で、惑わしてくる人たちが跡を絶ちません。
パウロがここで警告しているのは、「どんな手段によっても、だれにもだまされてはいけない」ということです。間違った偽りの教えに、私たちは決して惑わされてはならないのです。聖書は、世の始まりと終わりの両方を記し、私たちがどこから来て、どこへ向かっているのかを教えています。信仰者は、初めと終わりを知っていることゆえの「今」を掴んでいます。だからこそ、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べ…たゆまず良い働きをする」ことができるのです(3:12〜13)。
2,「不法の者」と「引き止めている者」とは
不法の者について
「主の日」が来る前に起こることをパウロは3節後半から記しています。全体の記述を見ると、こういうことです。今は、この「不法の者」を「引き止めている者」があるが、それがいつか取り除かれると、「不法の者」はサタンの働きによって登場して、力と偽りのしるしと不思議な奇跡を行なって人々を惑わすことになります。そして彼は自らを「神」と宣言して、神の宮の中心に座ります。しかし、主が来臨されると、彼は一瞬のうちに滅ぼされてしまいます。
3節の「不法の者」は、ギリシア語で「ホ・アンスローポス・テース・アノミアス」となっていて、「不法の人間」ということであり、おそらく怪物でも悪魔でもなく、一応「人間」ではあるようです。さらに「滅びの子」とも云われ、4節では邦訳にはありませんが、「反逆者」(アンティケイメノス)であり、「高ぶる者」(ヒュペライロメノス)とも書かれています。特に、神の宮での冒涜行為は、イエスがダニエル書から語られた「荒らす忌まわしいもの」(マタイ24:15)を思い出させます。「偽キリスト」(マタイ24:24)や、「反キリスト」(Ⅰヨハネ2:18)、また黙示録の「六百六十六」の数字のある「獣」(黙示録13:18)と同じなのかもしれません。
歴史上、この「不法の者」と同一視された人は多くいます。その原型は紀元前2世紀のシリアの王アンティオコス3世(アンティオコス・エピファネス)で、神殿でゼウスの祭壇を築き、豚の生贄を捧げました。また、ローマ皇帝ガイウス(カリグラ)、ネロ、ドミティアヌスなど、自らを神と称して、同じような要求を人々に求めました。彼らはその時代において「不法の者」と見られていました。そして16世紀の宗教改革者たち、ルターやカルヴァン、ツヴィングリなどは、ローマ教皇たちや教皇庁という体制を反キリストであると見ていました。また、反対にカトリック側からは、ルターこそが反キリストであると罵っていたようです。また、これまでの過去二世紀間においては、政治指導者たちが「反キリスト」や「不法の者」と見られていました。たとえば、ナポレオン、ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンなどです。
引き止めている者について
次に、「引き止めている者」ですが、これは「不法の者」の出現を抑制している存在を指しています。ギリシア語では、6節が中性名詞、7節では男性形となっています。それで「何か」と「誰か」の両方を指すと想定されています。おもに三つの見解があります。一つ目は、「引き止めている者」とは、聖霊と教会の働きであるという見方です。「不法の者」による反乱の前に取り除かれるのが、教会であるなら、ディスペンセーション神学の終末論に合致します。ただ7節の「取り除かれる」は直訳では「真ん中から出て行く」となり、受身形ではないので、そこをどう解釈するかです。 二つ目の可能性は、パウロと福音の宣教です。カルヴァンやオスカー・クルマンらがこの見解を記しています。福音が世界のあらゆるところに宣べ伝えられなければ、終わりが来ないということに基づいています。しかし、それならなぜ、パウロがこのように隠すような表現を使ったのか、説明が難しいと云われています。
三つ目はテルトゥリアヌス以来最も多い見解ですが、それはローマと国家権力ということです。法と秩序、公共の平和と正義と自由の守護者として正しく機能しなければならない諸国家がその役割を担うようにされています。無神論的で、反社会的である不法の力、そうした悪の存在は今もあり、地下に潜んでいるのですが、実は「すでに働いています」(7節)。しかし諸国家が抑止力的機能を喪失して終焉を迎える時、「不法の者」が表舞台に登場し、政治や社会に混乱が起こり、力を及ぼすようになるのかもしれません。
3,聖書の預言をどう見るべきか
アウグスティヌスは著書『神の国』で、「引き止めている者」について触れ、「この意味は私にはまったく理解できない」と述べています。この人でさえそうなのですから、私がわからないのは当たり前であると思いました。しかし、記されていることをこのように見ていく中で気づいたことがあります。それは「不法の者」も「引き止めている者」も、パウロがこれを記した時代のすぐ先にも、それを指し示す歴史的存在、人物や体制というものがありました。そしてその後の歴史でも、同様な対象があったと考えられます。キリスト者たちや教会はその度に再解釈と再適用を繰り返して来ました。
そこで、次の二つのことが言えそうです。一つは、終末に関する聖書のことば、また預言(あるいは歴史)は、「重層的なものである」ということです。時代の変遷の中でいくつもの層があり、その中で預言は当時の人々のすぐ先を照らし、切迫感を与えて導いてきたということです。このような歴史の流れを螺旋状に進むように見る人もあり、預言の成就を山々の重なりで見る人もありました。ですから、こうして歴史の層が幾重にも重なり合う中で、歴史は神によって支配され導かれていく、あるいは神によって紡がれていくということです。
もう一つは、けれども、最終的で決定的な成就は、「いつか必ず起こる」ということです。現代でも、ある人物が「不法の者」だと思うかもしれませんが、それは重層的な中の一つかもしれません。その場合、もっと先に最終成就のときが来るのです。しかし、いつか、それがどれくらい先なのか、今すぐなのかはわかりませんが、これらの預言が指し示す「不法の者」、「反キリスト」は必ず現れ、そして「主の日」が来ます。偶像礼拝の世界と神を冒涜する指導者たちに対する神の裁きが明らかにされる時は来るのです。それがパウロの確信でした。主イエスはすべての悪を滅ぼし、大小の嘘に取り囲まれた人々に対する神の公正で真実な裁きを必ず実行に移されます。