「高慢は破滅に先立つ」

ダニエル書 5:13-30

礼拝メッセージ 2024.9.8 日曜礼拝 牧師:船橋 誠


1,傲慢の罪を捨て、へりくだりなさい

終焉の危機迫る虚栄の宴

 バビロンの王ベルシャツァルは千人の人々が集う大宴会を催しました。宴はきらびやかな衣装をまとった大勢の貴族たちで賑わい、人の目にはその絢爛豪華さから、バビロンの繁栄が頂点に達したことの象徴のように見えたことでしょう。しかしスタディバイブル(ESV)の注釈にあるように「ベルシャツァルの宴会はそれが究極の愚行であったことが暴かれており、彼は墓場の瀬戸際で宴会をしていた」のでした。
 宴会で突然、人間の手のようなものが現れ、壁に文字が書かれました。王は恐れ震える中で、知者たち一団を召喚し、意味を知らせるよう命じました。けれどもその意味を解き明かせません。そこで王母が登場し、賢明な助言によってダニエルが呼ばれ、彼が王の前に立って、神からの知恵と啓示により、見事にその解き明かしを行いました。
 王の名前の「ベルシャツァル」とダニエルのバビロニア名「ベルテシャツァル」は、とてもよく似ています。「ベルシャツァル」の意味は、「ベルよ、王を守り給え」であり、ダニエルの名前のほうは、「ベルテよ、王を守り給え」という意味です。「ベル」はバビロンの神々マルドゥクの別名で、「ベルテ」とはそのマルドゥク神の妻のことです。この名前が示唆しているアイロニーは明らかで、ベルシャツァルは自分の名前の如くに神々に救ってもらえなかったのでした。

神のようになるという誘惑

 王は知者たちの長であったダニエルを疎んじていました。13節に見られるように、彼のことをユダから連れて来られた敗戦国の捕虜の一人にすぎぬ者として扱い、微塵も敬意の念を表しませんでした。そこにベルシャツァルの横柄で高慢な姿が映し出されています。でも彼の高慢は人間に対するものだけではなく、「天の主に向って高ぶり」の心を持った人でもありました。しかし、こうした傲慢の罪は、人が誰しも持ちやすい過ちです。人はみな、ちっぽけな存在であり、真の神に拠り頼んで生きるべきなのに、自分のことを何者かであるかのように思い上がり、自分を信頼するだけで、神への信頼を持たないのです。
 預言者エゼキエルは「自分は神だ」と高ぶるツロの君主に向かって「あなたは自分の心を神のように見なしたが、あなたは人であって、神ではない」(エゼキエル28:2)と諌めました。アダムとエバは「あなたがたが神のようになって善悪を知る者となる」という蛇の誘惑に負けて、禁断の実を食べ、罪を犯しました。「神のようになる」という誘惑は、いつの時代にも非常に魅力的です。もし人が神のようになれるのなら、もはや神に頼る必要はなくなり、高慢に振る舞うことができるのです。また人間が集団単位で「神のようになる」ことを企てた例が、バベルの塔の話です(創世記11:1〜9)。ネブカドネツァルが王位を追われたのは、彼が傲慢の罪を犯したからであると、ダニエルはベルシャツァルに言いました(20節)。「高慢は破滅に先立つ」のです。宗教改革者たちは罪の定義を「神なし」としましたが、現代の私たち人間は、まさにその高ぶりの罪によって、終わりの時の裁きに直面しています。
 私たちは高慢になるのではなく、へりくだることを求められています。「あなたの息をその手に握り、あなたのすべての道をご自分のものとされる神」に対して、恐れる心をもって生きることが必要です。人間の力を過信すること無く、へりくだって神に信頼することです。この地上に歩んだ人の中で、最もへりくだった生涯を送ったのはイエス・キリストでした。「(キリストは)自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました」(ピリピ2:8)とあるとおりです。キリストにならい、へりくだりましょう。


2,みことばと歴史から教訓を学びなさい

 ダニエルはベルシャツァルに対して、バビロニア帝国最盛期の権力者ネブカドネツァル王の身の上に起こったことを語っています。ネブカドネツァルは、強大で絶対的な支配力を持ち、すべての人々の生殺与奪の権を恣にしていたことが語られます(19節)。しかしそれで彼の心は高ぶり、霊が頑なになり、高慢にふるまったことで、神は彼を王座から引きずり下ろし、人々の間から追い出して、野の獣のようにされました(20〜21節)。ダニエルは、ベルシャツァル王に対し、「あなたはこれらのことをすべてを知っていながら、心を低くしなかった」と責めています(22節)。ベルシャツァルの致命的な失敗は、そのように過去の歴史から何も学ぶことをしなかったということです。
 次に、ダニエルは壁に書かれたことば「メネ、メネ、テケル、ウ・パルシン」(25節)を解き明かしました。これは「すべてを知っていながら、心を低くしなかった」ベルシャツァル王、そしてバビロニア帝国に対する神からの最終判決文のようなものです。 「メネ」とは「ミナ」という重さや貨幣単位で、同時に「数えられる」という意味です。次の「テケル」も同様に重さと貨幣単位の「シェケル」で、「(分量を)はかる」(テカル)という動詞と両義です。「ウ・パルシン」の「ウ」は「そして」(and)の意味で、「パルシン」は「半シェケル」という単位と、動詞「分ける」(ペラス)であり、ペルシアとの語呂合わせです。これらのことからこう訳せるでしょう。「ミナ、ミナ、シェケル、そして半シェケル」あるいは、「数えられ、数えられ、測られ、そしてペルシアに分けられた」と。ベルシャツァルと人々は、「いと高き神が人間の国を支配」していることを悟りませんでした(21節)。人間を正しく数え、はかり、足りているかどうかを判断なさるのは、紛れもなく神ご自身です。
 この箇所を読んでいて、有名な神学者が語ったことばを思い起こしました。それは「神は神である」(Gott ist Gott)ということです。それが意味することは、神は、私たちからすれば絶対的他者であって、この方を私たちは定義づけることも、人間の思考の中に捉えたり、閉じ込めておくことはできません。神はただ強烈なご自分の意志を持ったご人格として自由に存在する方であり、ご自身の意のままに私たちに近づき出会ってくださるのです。私たちはただそれをリアルに実感できるだけです。
 信仰者でも、神をどこか見くびっていて、真に恐れる心を見失うことがあると思います。無自覚的であるにせよ、神を自分の望むことの働く手段や都合の良い「しもべ」としてしまう高慢の罪は、絶えず付き纏うものです。ダニエル書がここで語っていることは、「あなたは人であって、神ではない。神は神なのである」ということです。それを認めて生きることは祝福です。なぜならこの世界が一見、支配者たちの権力闘争に翻弄されているように見えても、私たちの人生が世の力や偶発的出来事に弄ばれているように感じても、実はそうではなく、神は確かにおられること、そして「神は神である」ということへの信頼と確信とをもって、ダニエルのように力強く生きていくことができるし、祈っていくことができるからです。