「人間の創造」

創世記 1:26-31

礼拝メッセージ 2024.9.1 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


人間の創造

  26節。神は,自らの形に似せて人間を造る事を決心します。人間だけが神の形とされており,また人間だけが神から任務を与えられています。
 この神の言葉に中にいつかの課題が検討されてきました。第一に,神は自らを「われわれ」と呼んでいます。聖書の神は唯一神であり,複数の神を認めていません。つまり,神は自らを「われわれ」と複数で呼ぶはずはないのです。まず、天使を含めた天の宮廷と言う考えがあり(ヨブ記),この可能性があります。あるいは,この複数は神の尊厳の表現であると言う意見もあります。また,この複数は神がよくよくものを考えていると言う表現であり,人間の創造は神の熟慮の結果であるとの解釈もあります。
 第二の課題は,「神の形・似姿」です。この2つ言葉は,旧約では多くの箇所で使用されていますが,いずれも見える外形を表現する言葉(像など)です。しかし聖書の神は,目に見えた像として表されることを拒否します。人間は神の性質を引き継いでいると解釈されますが,言葉そのものはこの解釈とは相容れません。「神に似た形・似姿」とは神がどのような姿であるのかと言う議論ではなく,人間の外形すなわち肉体や生活を非常に大切なものとして神は創造したことの表現と理解できます。
 神は人間に任務を与えます。ただ人間はこの世界を生きるものとして創造されたのではなく,他の動物(ひいては自然界)を支配する仕事が与えられているのです。支配と言っても,神は自然(造られたもの)に対する支配権を放棄しませんので,人間は自然を管理すべきであると言う命令と受け取った方が良いでしょう。
 27節。神は自らの言葉どおりに,神の形に人を創造しました。この神の創造には,性別のことが述べられています。聖書全体は男性優位の考えによって覆われています。それに関する様々な表現が出て来ますし,逆にそのような考え方を超えようとする,あるいは打ち破ろうとする記述も登場します。創世記1章では,(記述の順序を除けば)とくに性別の優位は述べられていません。男女の違い,性の違いであって,優劣の問題ではないのです。
 28節。人間への祝福の言葉です。数が増える事を祝福の内容としてますが,動物への祝福と同様,ここには人間の命の尊厳が前提になっています。他者を傷つけ殺すことで増える命のことではありません。
 29-30節。植物は動物を養うために創造されたことが述べられています。草食は旧約世界の理想の一つであったようです。
 31節。 すべてのものを「よし」と神は認めました。これは被造物が神の目的(命を造り維持すること)に適っていることを意味します。


人間の尊厳

 創世記1章ではすべての命が価値あるものとして捉えられて,死・災い・苦しみなどといった命に対極するような要素はでてきません。人間においても同じです。特に人間の創造は神が行った特別な業として述べられており,人間の価値・尊厳の高さを記述しています。人間の増加を約束する,神の人間への祝福の言葉も,この人間の価値と尊厳の視点から理解すべきです。
 この価値と尊厳は,まず人間を人間として捉えるところから始まります。旧約聖書ではイスラエル人が神から選ばれて,その祝福を強調します。それは、イスラエルを特に価値ある人々として特権化してしまう傾向にあります。しかし,第1創造物語では,イスラエルとその他の民族との関係は何も示唆されていません。人は人として創造されており,それ故に価値があります。各々の民族の文化や価値観は大切にされなくてはならないでしょうが,それは優越の問題ではないのです。違いでしかありません。優劣は人間の価値判断(あるいは力関係)によってもたらされたにしか過ぎないのです。これは人間が男と女とに創造されていると言う記事にも当てはまります。聖書は男性優位社会の中で書かれ,半ばそれを前提に記述を進めています。しかし第1創造物語では性差に価値の優劣を置いてはいません。少なくとも,男性優位を弁護する記述は見られません。女性と男性はそれぞれの生理的な特質(あるいは違い)を考慮しながら,共に生きていく存在です。男女は違うが,その違いを積極的に認めて,人間としてあるいは社会に生きる者として同じ価値の上に立つものとして助け合いながら生きていけば良いのです。
 このような価値と尊厳を与えられた人間は,神から与えられた任務を果たすように求められています。第1創造物語での人間の使命は,自然の管理です。この命令は時として誤用され,人間が自然を我が物のようにして利用することを是認してきました。しかし,環境問題が地球大の事柄になるにつれて,自然は神に属していることが意識されるようになりました。人間が自然を管理することは,命を造り維持する環境を整える(これは環境問題だけでなく,日々の生活の事柄も含む)ことです。ここでもう一つ注意したいのは,人間が管理し支配すべきは自然であり,人間ではないことです。仕事や様々な組織における管理と言うことはあるのかもしれませんが、それは仕組みの問題であり,人の生き方・人格・尊厳などを他の人間が一方的に支配することではないのです。他者(家族をも含む)を自分の支配に置き,その独立した個人としての性格を踏みにじること(しばしばこれは良かれと思われている)は,聖書によればやはり許されません。
 神は人間の創造を含めて「良い」と認めています。しかし現実はその「良い」と言う宣言から程遠いものです。神を信頼し,神の価値観に従おうとするときに,命を造り守ろうとする神の意思に従うこと(命や人間の尊厳・尊重を守る)で,この地上に対して神が「良い」と言ってくださる在り方を実現したいものです。