「救い主である生ける神に」

テモテへの手紙 第一 4:6-16

礼拝メッセージ 2024.8.25 日曜礼拝 牧師:太田真実子


1,敬虔のために自分自身を鍛錬しなさい(6-10節)

 「良い教えのことば(6節)」という表現は、偽教師たちによる偽の教えが教会を惑わせていた背景に対するものでしょう。テモテは、良い教えのことばに「従ってきた(6節)」のです。これは無自覚的にではなく、熱心さを持って従うときに使われる言葉です。
 そんなテモテに与えられた責任が、真理を教え、教会を健全に整えることでした。偽の教えによって惑わす偽教師たちとは対照的な存在として、テモテにはキリストの奉仕者としての自覚がよりいっそう求められています。

 パウロはまず、イエス・キリストの奉仕者として「俗悪で愚にもつかない作り話を避けなさい」と教えています(7節)。「作り話」とは、「ユダヤ人の作り話」、つまり、当時偽教師たちが教えていた、旧約聖書をグノーシス的思弁[1]にまとめあげた話のことを指していると言われています(Ⅰテモテ1:4、テトス1:14)。現代で言う小説や映画のような物語に対する指摘ではありませんが、それでも、信仰に益とならない「俗悪で愚にもつかない作り話」であるかどうか、私たちも日頃から触れるものをよく吟味する必要があるでしょう。
 パウロは、そのようなものに影響を受けることを避けて、「敬虔(神様をうやまい、つつしむこと)のために自分自身を鍛錬」することを勧めています(7節)。この敬虔は、「今のいのちと来るべきいのちを約束(8節)」するものです。「肉体の鍛錬も少しは有益ですが(8節)」、それは来るべきいのちを約束するものではありません。
 「肉体の鍛錬」とは、おそらく禁欲主義的なことによる鍛錬ではなく、運動競技などによる身体作りのことを意味しています。健康を守るという意味では、ある程度は有益ですが、パウロにとって健康に生きていること自体が最優先事項ではありません。パウロはいつも、来るべき永遠のいのちに目を向けています(ルカ18:30)。しかも、そのいのちは、未来だけのものではありません。神様は今のいのちにおいても、すでに持たせてくださっています(ヨハネ3:36、5:24)。神様が与えてくださる永遠のいのちに目を向けるならば、敬虔であることが他の何よりも私たちにとって大切なことであるのかは明らかです。
 パウロやテモテたちは、宣教の働きのために大変な労苦を味わいました。しかし、それらの労苦は「救い主である生ける神に、望みを置いているから(10節)」こそのものでした。もし神が生きてはおられない神で、救い主ではなかったとしたら、パウロたちの人生は労苦しただけのものだったでしょう。しかしながら、神がいのちを約束しておられることについて、「このことばは真実であり、そのまま受け入れるに値するもの(9節)」だと確信を持って、その信仰を告白しています。私たちも、ことばのとおりに、神様が与えてくださるいのちを受け入れましょう。


[1] 正統派の教え、伝統、権威よりも、個人的な精神的知識を重視。グノーシス主義の宇宙論は、至高の隠れた唯一神と、邪悪な低次の神格とを区別し、後者が物質界を創造したとする(そのため、物質的存在を欠陥があると見做す)。救済の要素は、神秘的あるいは秘儀的な洞察を通して得られる隠れた神性についての直接の知識であると考えられた。


2, 信者の模範となりなさい(11-16節)

 本日の聖書箇所の後半では、若い牧会者だったテモテに信者の模範となることを教えています。教会の牧会者としてパウロに遣わされていたテモテでしたが、年が若いという理由で軽んじられることもあったでしょう。若いといっても、20代前半くらいの若さではなく、すでに40歳近い年齢であったと考えられています。「青年」という言葉も兵士になることのできる40歳くらいまでを指していたようです。いずれにおいても、キリスト者の共同体におけるリーダーは、年齢よりも、健全な信仰を持ち、人々の模範であることのほうが重要です。
 また、パウロがそこに行くまでは「聖書の朗読と勧めと教えに専念しなさい(13節)」と、この3つのことに専念するよう教えています。当時は文字が読めない人が多く、現在のように気軽に聖書を持ち歩くこともできませんでした。そのような中で、偽教師たちによる間違った教えが広まっていたので、聖書の朗読・勧め・教えは、よりいっそう最優先事項だったことでしょう。
 14節について、按手とは、その人に手を置いて、聖霊の力が与えられるように祈ることで、牧師や宣教師などの働きの祝福を祈る「按手礼」と呼ばれる式は現在でも行われています。ここで言われているテモテに与えられていた賜物がどんなものであったかについては、具体的にはわかりません。しかし、どんな賜物であれ、それが賜物として用いられるためには、与えられた本人が重んじて受け取ることが大切です。
 自分自身のことば・態度・あらゆることによく気をつけ、信者の模範となり、その働きを続けることは、自分自身のことも、周囲の人々をも救うことになることをパウロはよく知っていました。正しい行いによってたましいの救いが得られると言っているのではありません。神様は死後の未来だけではなく、今のいのちにおいても、救いをもたらしてくださるお方です。ひとりでも多くの人が神様からいのちの祝福を受け取ることができるように、パウロはテモテに「神様に敬虔であり続けること」「信者の模範となること」を大切にするよう指導しています。それはやはり、私たちの主こそ救い主であり、生きておられる神だからです。私たちも、自分自身と、他の人々のために、今日もみことばに聞き、祈り、神様を礼拝する時間を持ちましょう。そのようにして、敬虔のために鍛錬を少しずつ重ねていきましょう。