ダニエル書 2:25-49
礼拝メッセージ 2024.7.7 日曜礼拝 牧師:船橋 誠
1,神の愛から私たちを引き離すものは何もない
練られた品性が希望を生み出す
少年だったダニエルらは自分の国や町が敵の攻撃を受け、滅ぼされてゆくさまを見ていたことでしょう。自分も囚われの身となり、家も財産もすべて失われ、敵地へ連れて行かれました。そこでは名前さえも奪われて、見知らぬ土地で耐えて生きていかねばならなかったのです。彼らはいっさいを剥ぎ取られ丸裸にされ、身ひとつで日々を生きるほかなかったということでしょう。勝手な想像をすれば、バビロン捕囚という悲惨な出来事がなければ、ダニエル書は生まれなかったと思います。ユダヤで貴族として平穏に暮らしているだけであったなら、私たちはダニエルという人物について知ることもなかったでしょう。
この書で描かれている彼らの姿は、たとえすべてを失ったとしても、パウロが書いたとおり、苦難が忍耐を、忍耐が練られた品性を、練られた品性が希望を生み出すということそのものです(ローマ5:3〜4)。仮にその人自身が苦難ゆえに心身ともに弱り、信仰も希望も何も見えなくなっても、御霊はその人のうちにおられるし(同8:26)、キリストにある神の愛から引き離すものは何もないのです(同8:39)。
秘密を明らかにするひとりの神
2章を見ると、ダニエルは夢で怯えて不眠で苛立つ王の前に立ちました。27節から30節のダニエルの態度は威風堂々といったところでしょう。絶大な権力を握り、生殺与奪も思うがままというネブカドネツァルの前で、彼は何も恐れることなく大胆に自らの確信を述べています。しかし、同時に自分がその秘密を知り得たのは、自分の知恵や能力が高いからではなく、「天に秘密を明らかにするひとりの神がおられ」、その神に自分がアクセスしたからであることを謙遜をもって語っています。このダニエルの姿勢から、私たちの得た技術、能力、知恵などすべては神が与えてくださったものであることを認め、栄光はすべて神に帰さなくてはならないことを教えられるのです。
2, 神は創世の初めから世の終わりまですべてを支配している
巨像が示す諸王国の歴史
さて、ダニエルはネブカドネツァルの頭脳にダイレクトに繋がってシンクロしたかのように、夢の中身を詳細に明らかにしていきます。「王よ、あなたが見ておられると、なんと、一つの巨大な像が現れました。この像は巨大で、異常な輝きを放って、あなたの前に立っていました。」(31節)。夢に現れた巨像がどんなものであったのか、材質への言及はあるものの、その姿かたちや大きさについてはわかりません。3章は王が「金の像」を造らせた話ですが、もしこれが王を悩ませた夢に基づいた巨像とするなら、「高さが六十キュビト」で、約二十六メートルとなり、非常に大きなものです。32節と33節に像の材質が語られます。「像は、頭は純金、胸と両腕は銀、腹とももは青銅、すねは鉄、足は一部が鉄、一部が粘土でした」。37節から43節に像が何を象徴しているのかが明かされています。明確に読み取れるのは、頭、胸と両腕、すね、足はすべて「王国」を指しているということです。頭から順に、第一の王国となり、順に第四の王国までがこの巨像で示されます。金、銀、青銅、鉄(鉄と粘土)という素材が、各々の王国の特徴を示します。
王を廃し、王を立てるのは神
保守的解釈でこれら四つは、バビロニア、メド・ペルシア、ギリシア、ローマの諸帝国を預言したものとされます。その他の解釈ではたとえば、新バビロニア帝国の後継の王たちを指すと言う人もあります。また、ダニエル書が後代に書かれたとする立場では、バビロニア、メディア、ペルシア、ギリシアの四つであると解説されています。この2章の幻は7章(獅子、熊、豹、恐ろしい獣)と8章の幻(雄羊、雄やぎ)とに繋がるものとされています。すると、第一の「金」はバビロニアであることは2章38節で明らかです。第二の「銀」と対照となるのが8章20節で「あなたが見た二本の角を持つ雄羊は、メディアとペルシアの王である」という説明です。次に第三の「青銅」と対照されるのが8章21節で「毛深い雄やぎはギリシアの王であり、その額にある大きな角はその第一の王である」となります。どういう見解に立ったとしても、ここの巨像の幻が私たちに語る主要なメッセージは、すべての時代、地上のどの国も、神がすべてその主権をもって支配しておられるという真理です。ネブカドネツァル王は自分のこの手で、この力ですべてを治め、この世界を意のままに支配していると思い込んでいました。しかしこの夢は決してそうではないのだということを、神のご支配こそが一番上にあることを教えたのです。天の神こそが「王を廃し、王を立てる」(21節)のです。
3, 神の国とその力はすべてを破壊し全地を満たす
人手によらず切り出された一つの石が現れて、像の鉄と粘土でできた足の部分を打ちます。その破壊力はすさまじく、やがて巨像全体がひび割れていき、内部で爆発でもしたかのように跡形もなく粉砕されます(34節)。そしてこの石はいつの間にか巨大な山脈となって全地を埋め尽くしていきます(35節)。想像してみると奇妙でおかしな話です。巨像は純金や銀、青銅、鉄等の材料をふんだんに使って丹念に作り上げられた立派な工芸品でした。ところが、山の中に埋もれ誰も気にもとめない、たった一つの岩石がそこへ投じられて、像は粉々に砕け散ってしまったというのですから。人間から価値あるものと見られていたものが、無価値に見える一つの石で粉砕されるというのです。主が言われたことばを思い起こさせます。ルカの福音書20章17節から18節「イエスは彼らを見つめて言われた。「では、『家を建てる者たちが捨てた石、それが要の石となった。』と書いてあるのは、どういうことなのですか。だれでもこの石の上に落ちれば、粉々に砕かれ、またこの石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします」。
諸王国の預言、終わりの日の預言として捉えると、このメッセージはキリストの再臨を示すものであるのかもしれません。バベルの塔のように、人間が創り上げた繁栄した王国、高い技術、文明や文化は、人間の手の及ばない外側の神の御力によって、それらが強制終了され、不正も戦争も犯罪もない、神の義が樹立された御国がこの世界を覆うということです。
また、それと同時にこの石による破壊と占領は、神あるいはキリストというお方が、いかに大きな影響と力を私たちの人生に及ぼしていくかということも表しています。それは何もかも木っ端微塵にしてしまうほどの強烈な破壊力、爆弾のようなインパクトをもたらします。しかし、それは主を信頼する者にとっては恐れや不安とはならず、まさに希望です。現在から未来に向かう中で、私たちが信じて良いことは、必ず神の主権があり、支配があるという確信です。それは決して何者にも奪われることのない、砕かれることのない真の希望です。