「いのちの水をください」

ヨハネの福音書 4:1-15

礼拝メッセージ 2024.6.30 日曜礼拝 牧師:南野 浩則


サマリヤの女性との出会い

 イエスはパリサイ派の人々を避けるようにして、ユダヤから故郷のガリラヤ地方へ戻って行きます。その帰路にイエス一行はサマリヤ地方を通りました。サマリヤにありますスカルという町の井戸でイエスは旅の疲れをいやしていたようです。そこで一人の女性と出会い、ユダヤ人男性であるイエスからサマリヤの女性に声をかけ、水を求めました。


【コラム】「サマリヤの女性」という意味

 ユダヤ地方の北方にある地域で、イエスが育ったガリラヤとエルサレム(ユダヤ地方)とにはさまれています。サマリヤの人々は正統なユダヤ教とは違う神礼拝をささげており、またユダヤ人からは民族的な差別を受けていました。また女性の立場も男性とは区別されていて、女性という理由で多くの不利益を被っていたようです。サマリヤの女性がユダヤ人男性から声をかけられることなど常識は考えられませんでした。イエスは越えられない(越えるべきでない)二つの壁を越えたことになります。


サマリヤの女性への導き

 サマリヤの女性はこのユダヤ人男性の意図を測りかねます。イエスは女性の返答に正面から応えずに、神の賜物とそれを与える人について語ります。女性はそれに対して井戸の水にこだわりますが、イエスが偉大な方であるかも知れないと心を向けていくことになります。イエスは水(あるいは井戸)という言葉に引っかけて、神からの永遠のいのちについて語ります。渇くことのない水へと女性を導きます。


女性の応答

 15節の女性の言葉の真意は曖昧ですが、この女性がイエスの真意に近づいていることには間違いないでしょう。イエスとの出会いは、救いの経験の始まりです。実は、この女性の抱えていた具体的な問題はよく分かりません。後に夫が5人いたとか、現在ともに暮らしている男性は夫ではないという記事がありますが、それ自体は女性が男性にふしだらであったことを示すものではないようです。また、昼に井戸に水を汲みに来たことが人目を避けるためであるとも言われるが確たる証拠はありません。しかし、彼女はイエスに真理・いのちを認めていくようになっていきます。
 一般的に、イエスとの出会いは必ずしも救いをもたらすものではありません。福音書を見ても、人々はイエスと出会いますが、最初からイエスを敵視している人々もいますし、イエスの言動に失望する人々もいます。救いが届かない人々の存在は聖書自体が証しています。イエスはすべての人々を招きはしますが、マジックのようにすべての人々を救うわけではないのです。イエスの言葉や行動に表れてくるその価値観が自らの琴線に触れた人々がイエスに前向きに応答するでしょう。あるいは、イエスを敵対視していても、その言葉と行動によって変えられ他人々がイエスに応答するでしょう。いずれにせよ、救いはイエスから私たちに投げかけられ、私たちの決断が私たちの生き方を決めていくのです。もちろん、誰もがイエスについてすべてを理解するわけではありません。このサマリヤの女性も、イエスに関して疑問や求めを発し続けます。しかし、それはイエスからの招きに応えた結果であることが大切です。確信を持つことは重要ですが、それは私たちが疑問を持たなくなることではありません。理解できない部分があっても、イエスの言葉と行動に神の真理を認めたいと思います。私たちの人生に最も大切なのは「知識」ではなく、「生き方」なのです。その模範としてのイエスの生涯があります。